カテドラルも、儀式も、もともとは神聖な意味がありました。
Young Man Luther 『青年ルター』のp186の第2パラグラフの10行目途中から。
儀式を様式化する時、(神様との)縦の関係と(世俗的な)横に関係が出合いました。教会がヒエラルキーを作りだす雰囲気が、聖餐式のパンと葡萄酒から、裁判所やら、市場やら、大学やらに拡大して、中世の人々が自分を確かにする道に、形、色、音の拠り所を与えてくれます。中世の儀式を大事にする人は、人間を、象徴的で寓話的な秩序の中に、不動産と社会的地位という永遠を固定化した中に、位置づけようと試みもしました。それは、厳密で細々とした「正しい行為」の律法を整えることによって、そうしたのでした。このように、突飛なほど違いのある役割と服装で区別された儀式によって、自分を確かにする道を手に入れることで、人は、巨大にして、厳格な秩序に参加するのでした。
このようにして、人は、神とは無関係に自分勝手に、自分を確かにする道、「正しい行為」をすることでね自分を確かにする道を手に入れたと、錯覚するんですね。これがあらゆる誤りの始まりだとも知らないままに…。
一人では無理なんですね。自分を確かにする道は。
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