エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#創造 は #関係を始めること

2019-05-23 06:42:01 | エリクソンの発達臨床心理
 
#お母さんのお勤め
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「発達トラウマ障害」Enpedia

をご参照ください。

 The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することができた』 p.87。 第2パラグラフ,下から7行目途中から,です。今朝は,p.89の12行目から。  



生きている実感があまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生きている実感がリアルに自分を生きていることの不可欠の条件になります。同時に,2人か3人,心響き合う人間に発達するイメージと言葉を分かち合う者達だけがそれぞれの「生きている実感」から唯一の「共に生きている(共に居る)実感」の中で一心同体になります。…。

 「共に生きている(共に居る)実感」に関して,フロイトさんも,もっと言ってますからね。「間違いなく,ひとりびとりの人がキリストと一心同体にする絆が,ひとりびとりの人が互いに一心同体になる絆のはじめです」(1921)って。しかし,すでに触れましたように,フロイトさんがこう言ったのは,教会や軍隊のような「一心同体になる集団」についての話の中でしたね。しかしながら,人類皆兄弟姉妹に至る一心同体となる仲間全ては,親や創始者から,神々に至るまで,とても善いと感じる大好きな人と一心同体になる体験がなければ,ありえません。ですから,シナイ半島の上に現れた聖書の神様は,自分に語り掛けたのは誰か,を応えなければならなかったモーセから問われて,「私は,今ここで生きている者だ」と自己紹介していますし,モーセに率いられたユダヤの民に,「『自分が生きている実感』である私が,『自分が生きている実感』を皆さんにギフトとしてプレゼントしますから」と示しています。聖書の神様から「自分が生きている実感」を頂けると自ずから独立し不動になる自由な独立心こそ,一神教が進展した中心であることは,間違いありませんし,父なる聖書の神様は自分の仲間になって下さるし,最高の光を見ることに違いありません(エリクソン「生きている実感とキリストガリラヤ物語」1981)。

 ここで私どもに繰り返し甦ってくる思いは,赤ちゃんの時に赤ちゃんとお母さんとが,互いに大切にし合うことには,聖書の神様からの力がある,ということですね。それから,究極的には,赤ちゃんは,お母さんを「聖書の神様」に親替えして,人と聖書の神様とが,互いに大切にし合うことには,聖書の神様からの力がある,ということになりますし,「聖書の神様が御顔を見上げて,皆さんの顔に光をプレゼントしてくださいますから,皆さんの顔も晴れ晴れと光らせて,皆さんに心底からの安心と自由と心底からの独立心もプレゼントしてくださいます」(訳注:旧約聖書の初めのほうにある「民数記 みんすうき」6章26節の引用)ということに必ず立ち至りますから。ここから,私どもは,発達という創造物語に従うことと,山川草木悉有仏性としての「私達」が,実感を伴った体得底の一心同体として,必ず腹の底から体感することになりますよ。1つの生きている実感を共有して一心同体になる体験のとらえ方を考え直さなくてはなりませんよ,というのも,1つの生きている実感を共有して一心同体になるってことが,「大きな人」に合わせなくっちゃという忖度になることが,あまりにも多いんですからね。

 

                                   3重になっている,生きている実感

 

 この私とは,とらえ方にしても,言葉にしても,もちろん,フロイトさんの発明品ではありません。スコラ哲学では,この私とは,身体と魂が一心同体になることですし,哲学においては,自覚的な生き方です。ウィリアム・ジェームズ(1920)が,いくつかの手紙の中で触れているのは,「私を育てると,時空がまとまって来るもの」だけではなくて,≪私が自らを精一杯生かすこと≫についても,述べていますね。この≪私が自らを精一杯生かすこと≫は,従う者が全うになる全うな生き方そのものと結びついています。ここで,ウィリアム・ジェームズは(ドイツ語をよく知っていましたから),≪私が生きている実感≫(大我)に従って生きる心の習慣について,生まれつきの「小我」が無意識に働くことについて,合わせて考えました。自分が体験してきたことが,計り知ることのできない,いまここを私が生きることのど真ん中におられる,恵み深いキリストに,目覚めた私が自覚するように,心から善かったと思えるものにすることこそが,無意識的な小我のお勤めの一つだ,ということは明らかです。ですから,普段自分だと思っている小我は(それとなく触れましたように),聖書の神様の命が一巡する対体験のおかげで一心同体になる圧倒的な恵みの大きな水の流れを実感しますが,それは,1人の「聖書の神様の命が一巡する時空の大河のように流れる恵みの流れに終わりまで与る者」であって,1人の弱弱しく苦しむ者ではありませんね。「自分から人に関わる」人で,「事を始める」人であって,「自分から人に関われない」人ではありません。



 日野原重明さんが,新老人の会で,毎年新しい事を始めることを推奨していましたね。関係を始めることが創造だからです。

 

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