ルターは、本気になる前と後では、全くの別人。本気になることって、とっても大事。
p177冒頭から。
私どもの課題は、宗教的教義とその実践が、自分を確かにする感じに役立つものかどうか、というあたりにありますね。「神が自分を確かにしてくださる感じ」は、偉大な未知なるところのある、とあらゆる宗教は思いがちです。いろんな時代のいろんな場所の人々は、「神が自分を確かにしてくださる感じ」に独特の見た目と形を与えます。その人びとは、この見た目と形から、「実存的」と呼べるかもしれない自分を確かにする感じの一部とすんですね。というのも、この実存的と言うものは、それぞれの魂が存在そのものとの関係によって、決まってくるからなんですね。(この文脈では、私どもは、修道院の禁欲主義の技術が、人が自分を確かにする感じを組織的に弱めてしまうものだったなどと言って、脱線するべきじゃぁ、ありません。というのも、そう言った修道院の禁欲的な技術は、非常にしっかりとした、自分を確かにする感じを得るための、かなり優れた試金石であるかもしれないからですよね) 「神が自分を確かにしてくださる感じ」と 天国ではより人間らしくなるけれども、この地上ではより全体主義的になるような父なる姿を結びつける、キリスト教の結びつきによって、中世の人々は、宗教が中世の人々に担ってきた、まさに実存的に自分を確かにする感じを失っていった、と申し上げておきます。
自分を確かにする感じを、あらためて、父なる神に結びつけることが、中世的な自分を確かにする感じとは全く異なる、もう1つの「自分を確かにする感じ」をもたらしたわけですね。それは全く別な生き方をももたらしてくれます。そして、それは全く別の時代を画することをももたらします。自分を確かにする感じとは、全く革命的ですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます