≪私≫という感じは、経験の拡大とともに、使う人称代名詞が増えます。そして、≪私たち≫。≪私たち≫の中身が広がっていけば、当然≪私≫という感じも変わってきます。≪私たち≫が人類全体に広がれば、もうそこには、他者と争うような≪私≫という感じは存在しませんよね。
p331の後半、第二パラグラフ。
≪私たち≫の新しい境界線がこのようにできることを通して、すなわち、私たちのいろんな自己を通して、働いたり、生産したりする、事実と価値によって申し上げれば、天下分け目の境界線が徐々に描かれます。その天下分け目の境界線の向こう側には、あの明確に異なる「他者たち」が生きているんですね。この、いろんな≪彼ら≫と、いろんな≪彼らを≫、よそ者として、全くの「人でなし」というのではないにしても、否定し、あるいは、排除するようになります。こういった除け者を毎日創り出すことによって、その代わりに、私どもが自分自身の「本当の自分」の枠組みをハッキリさせることができます。あるいは、こういった様々な「自分たち」の枠組みをハッキリさせることができます。この様々な「自分たち」は、≪いまここ≫での様々な役割の中で、「これぞ私だ」というものとして、ある時は誇りを持って、またある時は熱狂的に、受け入れるものです。ところが、あらゆる関わり合いをする、全ての危機的舞台を通して、その≪私≫にとって、ある種の≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫が必ずあるものなんですね。この≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫は、ここ何ページかの間で、私どもが、≪真の関係≫、自由、救いを探し求める時間として描いています。ですから、そのような地理的、歴史的な条件に戻ることにしましょう。その条件とは、いつの時代にあっても、最も広い意味で「生き方」に内在する価値選択の向きを根底から支える基盤ですし、あらゆる≪私≫とそれぞれの≪私たち≫を繋ぐ架け橋なんですね。
ここを読むと、≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫がいかに大事かが分かりますね。日本人は、組織の中で馴れ合って、群れて生きることが習い性になっていますから、この≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫の価値がなかなか分からない。
この≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫こそ、私どもを≪最深欲求≫と向かい合わせにしてくれる時間なんですね。ですから、アンパンマンが「何のために生まれて、何をして生きるのか?」という問いを問うていますが、その問いに応えるための時間である、と言い換えることもできますね。
この時間があればこそ、自分はどっちを向いて生きていったらいいのか、がハッキリしますね。逆に申し上げれば、組織の中で馴れ合って、群れて生きていたんじゃあ、この向きが分からない。組織や時代に流されてしまうのは、まさにこの時です。「無責任の体系」、「無人支配」は、このようにして生じるんです。
≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫、ソリチュードは、私どもが人間らしい暮らしをするうえで、欠くことのできない、究極にして、必定の時間なんですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます