エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「自分を確かにする」と「共に見る」の不思議

2013-06-02 02:39:43 | エリクソンの発達臨床心理
 図らずも、内村鑑三の『後世への最大遺物』が話題になりました。内村鑑三が人生の挫折の中で、貧困に喘いでいる時に、この講演をしたというのですから、内村鑑三の精神的にしなやかな強さ、レジリエンスを感じます。
 さて、エリクソンが、「自分を確かにする」という根源的欲求について語る、その続きです。





この意味で、進化の上でも、生育歴の上でも、人間の遊びの始めに対して、私は別の見方をしようと思いました。果たして(単なる隠喩の意味以上に)、以下の関係には、それぞれ、どんな関係があるのでしょうか? 遊んでいる子どもとお芝居をしている大人との関係、ごっこ遊びと信頼との関係、本物の劇場と私どもが政治や戦争の劇場と呼んでいるものとの関係、楽しい見通しと真面目な理論との関係、それから、子どものおもちゃと老人の英知との関係。私は、たくさんの分野に触れなくてはなりませんが、お話しできることと言えば、一組の観察についてだけです。その観察は、もともと、子どもたちの遊びと患者さんたちの夢を観察する中で、現実を「共に見る」ことに対する欲求が、どれほど人間にとって根源的なものなのか、を私に教えてくれてきたものなのです。




 ここで、「自分を確かにする」ことに対する根源的欲求と、現実を「共に見る」ことに対する根源的欲求が一つになります。
 次回も愉しみです。
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