エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

世界の中心に意識がある。そして、楕円となる。

2013-08-10 01:21:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

                                            このひまわりも、東向き

 人が正しい方向に向いて生きるとは、信頼して生きることだと分かってきました。そうだったんですね。ですから、赤ちゃんの時の、根源的信頼感を確かにすることがいかに大事なことか、赤ちゃんの時の信頼感がいかに「根源的なのか」が分かります

 

 

 

 

 

 子どもたちの積み木遊びが、それに応じたヴィジョンと共に、明らかにしていることは、人間の意識には、端っこに押しのけられるよりも、中心でいたいし、取るに足りないと見られよりも、自分の新しい所を認めてもらいたい、という1つのニーズがある、ということをだと思われます。私がこのように、ご指摘しましたが、マリアの子宮が、その時(キリストを宿しているとき)には、宇宙の中心にある、ということを必ず分かるはずです。それはちょうど、子どもを宿した女性なら誰でも、その女性の子宮も、新たに生まれるすべての子どもも、宇宙に中心にいるのと同じです。この世を見る新しい目、存在が認められる新しい顔1人の新しい「私」となる新しい名前、も宇宙に中心です。それから、「人間側の条件」によっては決して裏切られることのない持ち味がたくさんある新しい人も(ひょっとすると)、同様に、宇宙の中心なのかもしれませんね。 

 

 

 

 ちょっとここのところも、分かりにくくはありませんか? 受胎告知の絵の時と同様に分かりにくい部分でしょう。何で赤ちゃんと、身ごもる母親は、宇宙の中心なのか?

 端的に申し上げると、人間の意識が世界を捉える時に、世界の中心として位置づけられなければならない(エリクソンが言う通り、そういうニーズが1つある)からであり、またこのことの背景でもありますが、ひとりびとりの人が、とっても大事な存在だからです。難しい言葉で、「尊厳 dignity」と言ったりしますが、「人の命は地球よりも重い」と言った方が、分かりやすいかもしれません。体重のことを申し上げているのではもちろんありません。どんな人でも、その人の存在価値、生きる意味が「地球よりも重い」ということであることは、言うまでもありません。

 ですから、赤ちゃんの新しい意識も、この世の中心にあります。そして、その意識の持ち主である全ての赤ちゃんと、その赤ちゃんを宿したすべてのお母さんは、宇宙の中心です。この場合、赤ちゃん1人、あるいは、お母さん1人が「世界の中心」と言っているのではありません。2人とも「宇宙の中心」なのです。つまり、2人がそれぞれ「宇宙の中心」であって、2人の関係が、やり取りと儀式化によって、2つの中心を持った楕円形であればよいのです。以前、儀式化=楕円形を先取りしておきましたね。ここでエリクソンはそのことを述べているのです。

 換言すれば、すべての赤ちゃんと、すべてのお母さんは、「自己中心」が許された存在です。つまり、自律的、独立的な尊厳のある存在である、ということです。この2つの中心が、繰り返し繰り返しのやり取りをする中で、儀式化をしていけば、お互いに、相手の意識の中心性を認め続けることになりますから、赤ちぉんも、お母さんも、意識と意識の主人公である<私>が発達できるのです

 今の日本で、そうなっていないのは、赤ちゃんやお母さんの自己中心がいけないのではなく、私どもが、両者の自己中心とやり取りをしていくゆとり=自由も認められない程、歪んだ、妙な社会しか、まだ作れていない、まぎれもない証拠なのです。非難されるべきは、赤ちゃんやお母さんではなく、私どもの方であり、私どもの奇妙な「指導者達」の方です。今の日本は、奇妙な「指導者達」とその周辺の権力寄りの人しか「自己中心」が許されないのです。日本には、民主主義の形はあっても、民主主義のヴィジョン死んでいるのです今の日本は、儀式主義の「お役所仕事」が優勢で、精神(民主主義のヴィジョン)よりも文字(民主主義の形、ウソとフリ[ゴマカシ])が幅を利かせているわけです

 その一例は、次の二つの会社の顛末の対照的であることです。

 ちっちゃなとあるバス会社とバカでっかいサル電力会社の結果の差です。先ごろ、高速道路でバスが防音壁に突っ込んで、真っ二つになるという事故がありました。何人かの人がなくなる、とても痛ましい事故でした。その事故をきっかけに、小銭を稼いでいた運転手とちっちゃな会社の社長が逮捕され、最近、高速ツアーバス制度が廃止されてしまいました。庶民の味方の交通手段の廃止に、心痛めた人は少なからずおられたと思います。その一方で、レイの電力会社は、未曾有の大事故を今現在も起こしているし、何十万人もの難民を今も出し続けているのに、しかも、その難民の内、数知れぬ人々が現在も亡くなっているのに、あのバカ・でっかい会社の責任者も、現場責任者のだ~れも、逮捕されないばかりか、その一部は「英雄視」される、という始末です。狂っていませんか? 桑田佳祐さんではないですが、今の日本は、「裸の王様が牛耳る世は...狂気(Insane)」とハッキリ言えるでしょう。原発という極めて危険な制度も廃止されるどころか、「問題ございません」と言いながら、「その内みんな忘れるだろう」と高を括っている感じです。許しがたい自己中心は誰でしょう?

 これが、ウソとゴマカシによる、「あいまいな日本の私」です。ウソとゴマカシと、アイマイサが誰のためにあるのか? ハッキリ私どもには分かります

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