世間の常識・世界観は、政治指導者たちと一般民衆が「『共に見る』ヴィジョン」です。一般民衆は、その世間の常識を分かち合わなければ、自分が世界の中心にいることも実感できないし、行動の自由もありません。そうなれば、まことに、切ない、不自由な生活を強いられることになります。また、政治指導者たちは世間の常識を用いて、この世の中での「まっとうな生き方」を示すと同時に、自分を指導者に選んでくれたことを通して、一般民衆も「選ばれている人間」なのだという感じを持ってもらうのでした。この世間の常識は、儀式化において、欠くことのできない最も重要なもの・一番なのに、他方で、「千年王国」や「大東亜共栄圏」「○○○ミクス」などというバカげた、時として幻想によって一般民衆を残虐的に振り回し、踏みにじる結果ももたらす、非常にアンビバレントな存在です。
世界観は、そこで、あらゆるものを包み込む概念ですが、それが実行可能な時は、集団が抱くイメージを統合することになります。私どもの公式に従うならば、その世界観は、証明可能な事実を選択することに規律のある注意を集中することになりますし、歴史的実感を強める1つのヴィジョンを自由に持てるようになりますし、強力に仕事に関わることによって、多くの人がやり取りをする仲間意識を実現することにもなります。結局、こういった傾向は、以前なら直観することしかなかった、ある種の歴史的真実を裏付けることになるように思われます。しかしながら、「多くの人々が」という言葉に注意していただきたいのは、人間の進化には、埋め込まれた傾向があり、反動的に排他性の強まる時期が、発作的に邪魔することはあっても、1つの全人類を認める意識に向かう、いっそう広い自分を確かにする道(アイデンティティ)を創り出すことになりやすいからです。
国家の(民族の)ヴィジョンを、人間の想像性の他の産物の構造と比較するために、選び出す時に、1つの国家の(民族の)「夢」という呼び名を特別に帯びる現象で、しかも、私どもの日常的な経験のエッセンスに関するそのような1つの主張を伴う現象から、まず尻込みしたくなります。国家の(民族の)夢の起源と一貫性に関して、私どもは神話学者の言葉を引用しましょう。
平凡なアメリカ人の行動は、今日でも、アメリカ合衆国の政治的、文化的な価値もそうですが、「地上の天国」の復活と呼ばれてきたピューリタンの確信の結果を未だに反映していることは、かなりの可能性があることです。
国家の(民族の)夢が、全人類を認める意識に向かう、自分を確かにする道を創りだす人間の傾向を反映している、というのはまさに福音です。私どもも、この方向で日々の生活をしていきたいものです。
それでも、人間には、なぜ、全人類を認める傾向が、埋め込まれているのでしょうか?
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