「真」の関係では、いずれも、そこには、やり取りと≪与える恵み≫が必ずありますね。「くれない族」は、赤ちゃんからでさえ、何かをもらおうとします。病気です。
今日はp,21 三つめの段落から。
それじゃあ、与えるっと、いったいどういうことでしょうか? この質問に答えるのは簡単に見えますけれども、実際は、あいまいさと複雑さとでいっぱいです。一番よくある間違いは、与えることは、何かを「諦めること」、すなわち、何かを失い、犠牲にすることだとする誤解です。貰い、かすめ取り、貯めておく生き方までしか育っていない質の人は、このような与え方しかできません。取引する質の人は、進んでものを与えますが、それは、その代わり何か別のものをもらえる時だけです。つまり、この人にとっては、値なしに与えるのは、騙されたことになります。ものを直接作り出さないのが生き方になっている質の人は、与えることは貧乏になることです。ですから、この手の人はたいてい、与えることを嫌がります。中には、与えることによって、犠牲という意味で、得意気になる人もいますよ。この人たちがそう感じるのは、与えるのが痛みだからこそ、「与えなくちゃならない」と思うのです。そういう人たちにとって、与えることで得られる徳は、犠牲を受け止めることにこそあります。貰うよりも与えることが優れているという規範は、喜びを感じるよりも、損する犠牲をはらう方がいい、ということになってしまいます。
与えるのが嫌な人が大部分でしょう。ケチですね。日本くらい世知辛い国では、ケチが大部分でしょう。金のあるなしではないですね。むしろ、貧乏な人の方が、この点大らかだったりしますしね。与えることができても、それはあくまで犠牲だ、という人も多いでしょうね。与えても、それはあくまで犠牲ですから、あんまりうれしい顔をしてませんね。だいたいが真面目な顔でしょう。お礼を言われれば二コリぐらいするでしょうけどね。
これじゃあ、≪与える恵み≫にならないですね。
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