子どもの遊びから政治まで
序文では、儀式化と遊びについて、大切なことを教えられましたね。 特に、ウィリアム・ブレイクのAuguries of Innocence「無垢の予兆」については、私が翻訳した12...
この部分は、序説と訳したイントロダクションの冒頭です。ここには「子どもの遊びから政治まで」という副題がついています。「子どもの遊び」と「政治」はそう簡単に結びつくのでしょうか?ふつうは結びつかないものでしょうか?それでも、子どもの喧嘩なら、「大人の喧嘩」としての政治闘争を結びつけることはできるかもしれません。
エリクソンが、子どもの喧嘩ではなく、子どもの遊びと政治を結びつけるのはなぜなのか?
エリクソンはここで、喧嘩のことなど取り上げません。エリクソンが取り上げるの、「飛び跳ねること」と「陽気でたのしいこと」、「驚き」、そして、「自由」です。
エリクソンは、「遊びは定義することが難しい」と言います。ここでは、プラトンの定義に従って、遊びを「飛び跳ねること」と定義します。子どもが嬉しい時に、ピョンピョン跳ねる、あれです。しかし、エリクソンは何気ない、この「飛び跳ねること」に、重力に逆らって「自由になろう」とする働きと、「安全にしなやかに着地しよう」とする働きの二つを見出します。
この二つの働きには、きっと深い意味があるのだろうと思います。その意味の一つが、子どもが発達するのは、この「自由になろう」と働きと、親子関係や友人関係や、もっと広い人間関係の中に、その自由になって地上に戻ってきた自分が「安全にしなやかに着地しよう」とする働きがあることを示唆するものだと、私は考えます。
しかし、それだけではもちろんないでしょう。人間が「自由」になるのは、贅沢やわがままのためにあるためではない。むしろ、本当の意味で、「陽気で楽しい」人生のためなのだ、ということです。人間が本当の意味で「陽気で楽しい」とは、いったいどういうことなのでしょうか? 私は思います。それは、≪いまここ≫を大事なパートナーと分かち合うことではないのか、ということです。しかも、そのパートナーとの≪いまここ≫は、他の人たちにも開かれている≪いまここ≫だ、ということです。
そうして、そのような≪いまここ≫を体験するものは、たとえそれが、「いつものこと」や「毎日おんなじ」であったとしても、そこには必ず「驚き」がある不思議。
私どもは、そのようにして「驚き」を体験するときに、「飛び跳ねる」気持ちをいただきます。そして、そこに「神様と対話する」ような自由と喜びを体験します。
そして、私は思います。
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます