若者の不寛容な拒否が、背後に、自己犠牲を伴う(必ずしも自覚したものではないでしょう)献身があることを教えられました。
社会は、若者が捨て身の献身をしているときでさえ、簡単に転向することを知っているからでしょう、若者には、支払い猶予の時間(モラトリアム)を与える場合がよくあります。この支払猶予の時間とは、若者たちが子どもであることを卒業した後の時間で、彼らの行いや仕事が、将来の自分を確かにする道(アイデンティティ)にとって、重要になる前の時間です。ルターの時代には、修道院生活は、少なくとも人によっては、心理社会的な意味で支払い猶予期間になるかもしれないものでしたし、自分とは何なのか? 自分は何になるのか? を決定するのを先送りにすることができる道でした。修道士の誓いにある約束は、ハッキリしていますし、実際、永遠ですけれども、その修道院生活を支払い猶予期間、時間稼ぎの手段と考えることを訝しく思う向きがおられますでしょう。しかし、ルターの時代には、修道士をやめることは不可能ではありませんでしたし、修道院から離れることは、必ずしも汚名になるわけでもありませんでした。ただしそれは、静かで定められた生活にとどまれば、の話ですが。たとえば、エラスムスのように、晩年枢機卿になるように乞われた人もあります。あるいは、枢機卿の皆さんを自分のことで笑わせることもできたでしょう。逃げ出した修道士、ラブレーがしたように。修道院生活を選択した人が、他の時代の修道院生活以外を選択するする人以上に(フロイトは生理学実験室に入りましたし、アウグスティヌスはマニ教に入っています)、岐路の立つ前に「自覚的な」時間稼ぎをしていた、と申し上げているのではありません。人生の岐路に立つのは、二十代後半であることが多いでしょうし、今すべてを、献身していることに捧げれば、もっと後になるかもしれません。このような若者たちの生活が危機に陥るのは、まさに、自分ではないものに運命的に傾倒しすぎていたことに、ふと気付きかけた時なのです。
なかなか本物がわからないと申し上げましたね。それは自分のミッションがわからないことと裏腹です。ですから、若い時分は自分のミッションではないものに、エネルギーをかけすぎてしまいますし、腹黒い大人は、若者のそのエネルギーを利用しよう、付け入ろうと、狙っています。モラトリアムとは、本物を知り、自分のミッションに気付くとき、卒業です。
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