精神分析の訓練されたセラピストには、実践哲学が必ずあるものです。それがないセラピストは、ゼネコン業者の孫請けよろしく、子どもまで届かない杭しか打てませんよね。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p98の、第3パラグラフから。
こういった関連する動き全てを、コントロールすることをかなり意識出来るように、ポテンシャルとして、なると、あるいは、私は、控えめに、と申し上げてきたのですが、控えめに意識できるようになると、精神分析のセラピストは、≪癒しの時≫にピッタリと叶ういろんな解釈に繋がる、癒しと気付きをもたらす「内なる光」である内省に至る望みも、巧みに手に入れられます。このような希望に満ちた解釈は、セラピストにも、クライアントにも、等しくビックリするようなサプライズになる場合が多いんですよ。しかも、この解釈は、セラピストとクライアントが、「その人らしさ」を全うし、人間が発達の道すじ通りである、と解釈できることに、ビックリなんですね。このようにして、クライアントの人生行路が、セラピストとクライアントが出会った時に放たれる、あの光の中で、ハッキリする時、解釈が癒しになります。発達上でも、歴史上でも、「なるほどなぁ」、「人生は上手く出来てるなぁ」と感じる気付きが増えると、癒しが訪れますね。
これも見事な記述ですね。人が癒されるのは、「なるほどなぁ」、「人生は上手く出来てるなぁ」と感じる気付きが、与えられる時でしょ。それは、セラピストとクライアントが光に照らされるからです。その光とは、希望に満ちた意識なんですね。
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