トラウマのことを話すと、理解されづらいですから、トラウマのことを話す場は、意識に意識を重ねて、創り出さなくてはなりません。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.246、ブランク下の、第2パラグラフ、6行目途中から。
私は、初めて退役軍人が、ベトナムで1人の子どもを殺した話をしてくれた時のことを思い出しましたね。私が7歳の時に、父親が我が家の前で、お隣の子どもがナチの兵隊に、一顧だに値せずとばかりに、ぶち殺された話を聴いた時に、鮮やかにフラッシュバックしてしまいました。帰還兵の話に対する私の反応は、耐え難いものでしたから、私はセラピーのセッションを中止しなくてはなりませんでした。ですから、セラピストは、自分自身の教育分析をチャァンとしとかなくっちゃね。そうすれば、セラピスト自身が自分の世話が出来ますし、患者さんたちに心開くことも出来ます。患者の話が激しい怒りや嫌悪を催すものであっても、違いがありません。
ヴァン・デ・コーク教授も、最初はやはりヒヨッコだったわけですね。未完の課題があって、引き出される思いもしましたから、セラピーを続けることが出来ませんでしたからね。
それでも、教育分析をチャァンと受けて、自分が引き出されないように、オープンマインドでい続けることがてぎるように、訓練したはずでしょう。
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