エリクソンが、ホイジンガの文書を引用する中で、実在論が寓話、たとえ話に繋がっていたことを取り上げていましたね。今日は、その寓話の一つ「ブドウ園の労働者」の譬え、を取り上げてみましょう。
この寓話は、「マタイによる福音書」第20章1節~16節にあります。あらすじは、イエスが、「天の国は次のようにたとえられる」と語る所から始まります。マタイが「天の国」と言う時、それは「神が働いている場」普通は「神の国」と言われる状況を指していると考えられます。「主人が、ブドウ園で働いてもらうために、…出かけていきます」。夜明け、9時ころ、12時ごろ、3時ころ、そして、5時ごろと5回も人を雇うために、主人は出かけます。夜明けに雇った者には「1日1デナリオンの約束で」働いてもらいます。9時に雇った人には「相応しい賃金で」との約束で働いてもらいます。5時に雇ったものには、「あなた達もブドウ園に行きなさい」としか、主人は言いません。
賃金を払う段になると、主人は、後からブドウ園に来た者から賃金を払います。賃金は全員1デナリオンです。すると、朝からは働いている者から不満が出ます。「最後に来たこの連中は1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」ってね。でも、不平を言う方が当たり前ですね。しかし、主人は次のように応えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私は最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。…」
そして、この寓話の最後が「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」となります。
神が支配する状況では、この世的な常識や「当たり前」を超えるルールが働く。それは、弱さが強さになる、活かされる、ということでしょうか? 一見「悪」に見えることの中に「良さ」があるのでしょうか?
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