大事にするといっても、貪りと慈しみでは、天と地の差がありますね。天国と地獄かもわかりませんね。
p51の第2パラグラフ。
セックスの相手を大事にするとき、兄弟のように親身になって人を大事にすることも、母親のように、温もりのある感じで人を大事にすることもない、村八分があります。セックスの相手を大事にする気持ちが村八分を生み出す性質については、もっと議論することが必要です。セックスの相手を大事にする気持ちにある、村八分の気持ちは、強迫的な愛着だと誤解する場合が多いです。「恋に」落ちた2人が、他の人を大事に思えなくなることがあることにお気づきでしょう。その人たちの恋は、実際に、自己中の2人版です。その2人は、お互いに相手を自分自身の分身のように感じて、一人の人が2人に拡大することで、相手にされないという課題を克服しているのです。その2人は、一人を克服する経験をするけれども、その他の人類からはかけ離れていますから、お互いからも離れ離れのままですし、自分自身であることもできません。その2人が、自分たちは一体になっていると思っているのは、幻想です。セックスの相手を大事にすることは村八分の気持ちですが、それでも、他者の中に存在する全人類、居間を生きるすべてを大事に思うのです。セックスの相手を大事にする気持ちが他者に対して大事に思う気持ちを村八分にするのは、セックスしている時の一体感があり、人生すべてをかけている場合だけであって、親身になって、心の底から、人を大事にすると意味においてではありません。
鮮やかな対比ですね。セックスの相手を大事にする、貪りは、それでも、その他の他者の対する大事にする気持ちもあるので、セッスクの相手を大事にするだけでは、物足りないんですね。オープンな関係に開いていく必要が、どうしてもあるようですね。
その点、兄弟のように親身になって人を大事にすることや、母親のようにぬくもりのある感じで人を大事にすることは、オーブンな関係であり、直接の相手だけではなくて、全人類を大事にすることと繋がっているわけですね。
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