私、には、知る対象である、「知られる私 ミー」と 知る主体である、「知る私 アイ」かあると言ったのが,ウィリアム・ジェームズです。私ははじめから2重性があり、それをまとめることが何よりも大事なんですね。この二つが分裂するとき、あらゆる精神病理と社会病理が始まる、と言えるほどです。
The Galilean saying and the sense of "I" 「ガリラヤのイエス・キリスト物語と≪私≫が生きている実感」からp323の第4パラグラフ。
これ(ウィリアム・ジェームズが,「意識の中心である≪私≫を意識の対象にするのは難しい」と言っていること)を読むとき、私はどなたかが次のようにつぶやくのが聞こえてきます。「われ思う、ゆえに、われあり」(訳注:近代哲学の祖,デカルトの言葉)と。しかし、私どもが今ここで関心があるのは、すべてのに人間にある「≪私≫が生きている実感です(すべての人間には、その中にはあの哲学者たちも含まれます)。「≪私≫が生きている実感」が,「≪私たち≫が生きている実感」の中で,他の人たちと絆が出来るのは,1つの言葉を共有することによってですし、その共有された1つの言葉は、次に、世の中に対する世間に広まっている見方が,ある地域の人ひとりびとりの一般的な見通しに影響するだけではなく,特に,新鮮な啓示を告げる声を受け止める,ひとりびとりの心構えにも影響する仕方に,シックリと来なくてはなりません。結局,≪私≫が生きている実感は,みんなが自分の経験を伝え合うこの世の中で,意識の中心であり,その意識の中心であることが,あまりにもヌミノースなので,≪私≫が生きている実感は,イキイキ,ピチピチ生きている実感になり,さらには,いまここを生きる,なくてはならない条件だという実感にもなります。同時に,2人か,3人が,一致した世の中に対する見方を,言葉と共に,分かち合う時,いっとき,ひとりびとりの≪私≫が生きている実感が,一つの≪私たち≫が生きている実感に没入させることができます。そこで,私は後ほどお示ししようとするのが,特定の時空の特色を区別できる,ということです。その時空の特色次第で,≪私≫が生きている実感がかなり確かにされもし,あるいは,≪私≫が生きている実感が確かにされなければ,あの独特の強い不安に陥ることにもなります。
ここが、日常生活の心理学である、臨床心理学、いいえ、実践心理学の要諦です。
発達トラウマ障害DTDの子どものサイコセラピーにバッチリ使えるところです。
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