コペルニクスの太陽中心説(地動説)は、私どもの意識が、自己中心であることを認めてもらわなければ、始まらないことに反するところがあります。人間は、この矛盾にどう折り合いをつけていくのでしょうか?
ここで思い出されるのは、あらゆるヴィジョンに対する私どもの利害関係です。それは、ヴィジョンの持ち主であり、だからこそ、自分のヴィジョンを論争の中で告白しなくてはならない専門家にとってだけではなく、様々な、宗教上の見方、科学的な見方、価値に対する見方がお互いに競い合っている、ある時代に生きる、ひとりびとりの個人にとっての、ヴィジョンとの利害関係です。人間の自我の本質は、何物にも負けず劣らず、明白で、しかも、矛盾に満ちた、進化の1つの事実である訳ですが、人間が宇宙の中心であることを裏付ける、あらゆる理論と、生死に関わるほどの利害関係があります。しかし、人間の自我がその利害関係をコントロールしようとする際に、その同じ人間の自我が、果てしなく知りたがりの科学も支持してしまいます。そして、科学はえてして、人間の意識の中心性を相対的なものにしてしまいがちです。それは、科学が、地球に宇宙での別の場を与えようが、あるいはまた、人間の誇り高い意志を無意識裏の動機に依存しているにすぎないものにしようが、お構いなしなのです。したがって、人類は、自分の存在の中心性を延々と求め続けるのに、科学がもたらしてくれる、比較できない程偉大な、あの気付きと偉大な、あの力と折り合いを付けることをもってするのです。その気付きと力とは、人間は、科学によって、宇宙の中でいっそう一人ぼっちになり、自分自身に対して、いっそう責任がある、ということです。これは、まぎれもなく、現代人が、一定の条件の下では、日常生活の中で、日々刻々と再儀式化を求めた、全体主義的な革命的価値を喜んで抱いてしまう、という歴史的逆説を助長するものでした。他方では、世界に対する見方の中に、過去においては、革命的な再生があった国々は、葛藤に満ちた儀式化の危機を繰り返し経験しています。それは、その国々が国家の夢を現代的な次元に合わせようとするからなのです。
現代は、科学によって、ひとりびとりが宇宙の孤独を経験します。人間の意識が、世界の中心ではないことが、ますます明らかになるからです。しかし、人間の意識は、自己中心でなければなりません。ここに、現代人の決定的な矛盾があります。
それは、一方では、宇宙の孤独とその自由から逃走する、という、エーリッヒ・フロムが明確に示した道に、人間が進む可能性をはらんでいます。それは、フロムもエリクソンも、ともにはっきり示している通り、ナチや軍国主義日本(今の日本も?)のような全体主義に至ります。
他方では、人間の再生を、もう一度、日常生活の儀式化を通して、実現しよう、とする、エリクソンが主張している道の可能性も残っています。
どちらを選ぶかです。
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