自分はダメダァという罪責感と、愛憎相混じる連想は結びつきやすいかも。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.257の、第3パラグラフから、8行目途中から。
(私は、ここで、フロイトが観察したことには文化的な相対性があることや、フロイトの用語を使いだした時期はいつだったのか、などを議論するんじゃぁなくて、フロイトの揚げ足取りをしたいと思っている人たちが、家族、子ども時代、社会に関する体系的な提案を進めなくっちゃと思うことになるだろう、と思いますよ。この体系を提案することこそ、フロイトが最初に気付いた謎の周辺部に戻るのではなくて、そのど真ん中に近づくことになる訳ですからね。)
フロイトが最初に気付いた謎とは、一言で言えば、無意識にある悪い良心の悪行ぶりです。その悪い良心が、親子関係の中で培われ、それが第2の本能みたいに、その人の一生を支配するだけではなくて、親子関係を通じて、拡大再生産され、人を心の病にもするは、社会的な悪影響をも、様々な形でもたらすは、という訳です。ですから、家族、子ども時代、社会に関する体系的な提案を新たにしていくことは、その悪い良心という謎を、さらに明らかにするものとなりますし、それはフロイトが課題にしたことのど真ん中を突くことだ、という訳です。
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