
8番目の舞台も、実感が大事人を大事にすることで学ぶべきものはない、との誤解2015-01-17 11:30:43 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い) 人を大事にする時で......
『新約聖書』にあるイエス・キリストの物語の3番目は、「ルカによる福音書」です。その第19章10節には、前田護郎先生の翻訳では、
「10人の子が来たのは失われたものを探して救うためである」
といいます。
「人の子」はすでにご指摘しましたように、イエス・キリストが「私」と言う代わりに言った代名詞です。イエス・キリストの生きる目的、とでも言っていいことを、端的に述べている言葉でしょう。
イエス・キリストは、探し出してζητῶ、救い出す σῷζω ために生きている。しかも、探し出すことと、救い出すことは、ほとんど同じことを、別の角度からいったものではないか? と私は感じています。すなわち、探し出すことは助け出すことだと。
ここも隠れん坊のお話ですね。
金持ちだったけれども、仲間を裏切って税金を取り立てていた、そして、ピンハネもしていたザアカイは、仲間からは嫌われ者でした。誰も家によってくれませんでした。ザアカイ自身も、後ろめたい気持ちだった、ということは容易に想像できますでしょ。その時に、何かを探して、こっそりと隠れてイエスに会いに来たザアカイに気付いたイエスは、ザアカイの家に泊まることにしたようです。人はそれをいぶかったけれども、ザアカイは喜びにあふれて、ピンハネ分は4倍にして返します、全財産の半分は貧しくされた人たちに寄付します、と言いだしました。そして、今日ご紹介している、イエスの言葉です。
イエスは何を探し出したんでしょうか? 木に隠れていたザアカイでしょうか? そうかもしれません。でも、少なくてもそれだけではないでしょう。ザアカイは、後ろめたい気持ちを持ちながらも、自分でも価値を見出せずに困っていた≪本当の自分≫を、ザアカイよりも先に見つけ出して、「ほら、こんなに素敵な、あんたの≪本当の自分≫ですよ」ということを言葉ではなくて、ザアカイの家に泊まる、と言う態度で、イエスはハッキリと示したんだと感じますね。
探し出すことは救い出すこと。
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