#正しい行いを目指す生き方 という #悪い良心の偶像
#最初のやり取り #自分の音色にピッタリ #微笑みの力 と #母親の顔 現世考: 津久井と小金井から 何があっても 「大丈夫!」 おとぎ話の鈴鳴らし......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.343の第4パラグラフから。
今朝は,p.344の,第2パラグラフ,10行目から。
子どもの頃に善悪の境界線を作り出す日常生活の礼拝と大人の世界の裁判はどちらも,前に示しました日常生活の礼拝の判断基準,すなわち,互いに大切にし合いなさいというキリストの新しい約束(訳注:ヨハネによる福音書第13章34節他)を守ることと,日常生活の礼拝では細部と全体の両方に気を配ることを,溢れるほど満たします。それは,日常生活の礼拝に参加する2人の実感や行いそのものを超越する,キリストを信頼して,互いに大切にし合う関わりがある,ということです。つまり,理解し合った仲間全てを,互いに大切にし合うことです(願わくば,スケープゴートになった自白した犯人も,その仲間になれますように)。それに,私は地球よりも重たい,掛け替えのない私だと実感する心の習慣は,自分を心から自由にするものですから,毎日礼拝が必要不可欠であることは,人間の「本能みたいなもの」と思われます。賢い判断をする原理は,人が本当の自分を創造発達させるのにも不可欠だけではなくて,創造発達が一心同体の仲間を作り出す上でも,必要不可欠です。
しかしながら,賢い判断をする原理が,公の場でも私的な場でも,うまく働いているのか見てみると,賢い判断をするに日常生活の礼拝がうまく働かない場合,倫理が世代から世代へと継承されないことも見て取れます。シックリとこない感じが内心あるのは,怖いからそうしなくっちゃという気持ちが,正しいと感じることに自由に賛成する気持ちに,とってかわります。あるいは,強迫的に中身のない言葉を口にする人が跋扈して、確信をもって日常生活の礼拝にする者を虐めます。賢い判断が台無しになるのは,自己愛過剰のためですから,賢い判断も,「正しいこと」を無慈悲に人に押しつれることになるか,感情的な覗き趣味になるのが落ちです。自己愛過剰はおしなべて,(訳注:厳罰化を主張して)犯罪者を絶望的な孤立に陥れますし,生きる力にならない激しい怒りをますます悪くします。犯罪者を絶望させたり,激しい怒りをますます悪くしたりすれば,ご当人を「恥知らず」にするだけです。このように,毎日礼拝が後回しにされたり,歪んだりしますと,どなたにでも心を空っぽにして心響かせる心の習慣を作り出すのではなくて,いつ爆発するか分からない,生きている実感のない虚しさをもたらします。この生きている実感のない,いつ爆発するか分からない虚無感こそ,このシンポジウムが深く注意を払わなければならない相手です。と言いますのも,「善良な」普通に見える人でも,キリストの恵みに満ちた毎日礼拝というギフトを見失ってしまえば,青年期の子どもが横道をそれてしまうのは何故かを説明してくれるからです。
普通に見える家庭の子が,現実には粗末に育てられていて,発達トラウマ障害の子ども,青年,大人,中年,初老になって,満ち溢れている,ニッポンです。
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