エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#暇つぶしだけの人生を送っているあなたへ #生きている実感 は #聖書の神様からの身に余るプレゼント #内なる光 #キリストの恵みを忘れない と #育つ

2018-09-17 07:11:40 | エリクソンの発達臨床心理

 
エリクソンの叡智 :  #発達上の人間力 と #キリスト教の価値 の #一致 #パウロ神学に立脚
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 今宵は,いつもの翻訳を離れて,Young Man Luther : A study in Psychoanalysis and History 青年ルター,精神分析と歴史の中の一つの研究,p.183,第2パラグラフから。

 

 

 デカルトの「私は考える,ですから,私はいまここに生きている」という言葉は,中世哲学の終わりを告げた,と言われます。その中世哲学は,聖アウグスティヌスから始まりましたでしょ。聖アウグスティヌスは,人間が考える能力の中に,聖書の神様が存在することを証明するだけではなくて,聖書の神様からの身に余る好意を証明するものと,見なしました。アウグスティヌスが考えたことは,人間が戴く「内なる光」とは,「聖書の神様からの尽きせぬ恵みが満ち溢れたもの」が実現したものだ,ということでした。ですから,私どもは,「いつも人を心から大切にする,あるいは,恵みがいつでも満ち溢れた,神様と一心同体になること」が,「内なる光」だ,と言えるのかもしれませんね。それは,アウグスティヌスが,彼の神学すべての中で,ルターが,使途以降ルター以前で,アウグスティヌスこそ,最高の神学者と呼んだ,聖書の神様に対する信頼を中心に据えていたからに他なりません。アウグスティヌスは(後に,ルターもそうであったように),「人間が地獄に行く定め」,すなわち,人間が完全に的外れに生きていることに関して,一切の妥協も譲歩もしませんでしたし,聖書の神様だけが,単独で,今ここを生きている,ということを実現できる,ということにゆるぎない確信を持っていました。アウグスティヌスは,「人々は,今ここを生きていたり,生きていなかったりしますでしょ。人々が,今ここを生きる,ということを実現できるのは,聖書の神様から,今ここを生きている,ということを引き出すからなんですし,人々が,今ここを生きていないのは,生きている『恰好』はできても,生きていることを,『実感するように育って』いないからです。人々は,みんな,今ここ生きているのではなくて,暇つぶしと繰り返しによって,人々は共に1つの世界を全うしているようでいて,その実,部品にしかなっていないんです」と言うわけです。人は,神様から無限に大切にされる恵みがない限りは,明らかに,部品も同然でしょう。人は,暇つぶしだけの人生になります。神様から無限に大切にされる恵みがなければ,人間と一心同体になっても,それは,暇つぶしだけをしている多くの人間と同じになるだけです。ところが,聖書の神様は人間に,いつでも聖書の神様から大切にされている,という唯一無二の恵みの思いと,いつでも聖書の神様は大切にしてくださった,という唯一無二の恵みの思い出とを,下さいますから,そのように,聖書の神様からいつでも大切にされてきたことによって聖書の神様と一心同体になることが始まります。



 見事な記述です。

 聖書の神様との生き生きした体験がなければ,エリクソンは,こうは書けなかったでしょう。それは,アウグスティヌスやルターの体験を,エリクソンが追体験して,アウグスティヌスやルターが本に書いてあることが,「なるほど,本当だね」と体感したからこそ,このように,見事に書けたわけです。

 イキイキ晴れ晴れ人生は,キリストの無限の恵みを忘れないことです。

 その体験がない西平直さんの翻訳は,あまりにも惨めです。


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