エリクソンの叡智 : #発達上の人間力 と #キリスト教の価値 の #一致 #パウロ神学に立脚発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80......
今宵は,いつもの翻訳を離れて,Young Man Luther : A study in Psychoanalysis and History 青年ルター,精神分析と歴史の中の一つの研究,p.183,第2パラグラフから。
デカルトの「私は考える,ですから,私はいまここに生きている」という言葉は,中世哲学の終わりを告げた,と言われます。その中世哲学は,聖アウグスティヌスから始まりましたでしょ。聖アウグスティヌスは,人間が考える能力の中に,聖書の神様が存在することを証明するだけではなくて,聖書の神様からの身に余る好意を証明するものと,見なしました。アウグスティヌスが考えたことは,人間が戴く「内なる光」とは,「聖書の神様からの尽きせぬ恵みが満ち溢れたもの」が実現したものだ,ということでした。ですから,私どもは,「いつも人を心から大切にする,あるいは,恵みがいつでも満ち溢れた,神様と一心同体になること」が,「内なる光」だ,と言えるのかもしれませんね。それは,アウグスティヌスが,彼の神学すべての中で,ルターが,使途以降ルター以前で,アウグスティヌスこそ,最高の神学者と呼んだ,聖書の神様に対する信頼を中心に据えていたからに他なりません。アウグスティヌスは(後に,ルターもそうであったように),「人間が地獄に行く定め」,すなわち,人間が完全に的外れに生きていることに関して,一切の妥協も譲歩もしませんでしたし,聖書の神様だけが,単独で,今ここを生きている,ということを実現できる,ということにゆるぎない確信を持っていました。アウグスティヌスは,「人々は,今ここを生きていたり,生きていなかったりしますでしょ。人々が,今ここを生きる,ということを実現できるのは,聖書の神様から,今ここを生きている,ということを引き出すからなんですし,人々が,今ここを生きていないのは,生きている『恰好』はできても,生きていることを,『実感するように育って』いないからです。人々は,みんな,今ここ生きているのではなくて,暇つぶしと繰り返しによって,人々は共に1つの世界を全うしているようでいて,その実,部品にしかなっていないんです」と言うわけです。人は,神様から無限に大切にされる恵みがない限りは,明らかに,部品も同然でしょう。人は,暇つぶしだけの人生になります。神様から無限に大切にされる恵みがなければ,人間と一心同体になっても,それは,暇つぶしだけをしている多くの人間と同じになるだけです。ところが,聖書の神様は人間に,いつでも聖書の神様から大切にされている,という唯一無二の恵みの思いと,いつでも聖書の神様は大切にしてくださった,という唯一無二の恵みの思い出とを,下さいますから,そのように,聖書の神様からいつでも大切にされてきたことによって,聖書の神様と一心同体になることが始まります。
見事な記述です。
聖書の神様との生き生きした体験がなければ,エリクソンは,こうは書けなかったでしょう。それは,アウグスティヌスやルターの体験を,エリクソンが追体験して,アウグスティヌスやルターが本に書いてあることが,「なるほど,本当だね」と体感したからこそ,このように,見事に書けたわけです。
イキイキ晴れ晴れ人生は,キリストの無限の恵みを忘れないことです。
その体験がない西平直さんの翻訳は,あまりにも惨めです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます