黄金律はやり取りする際の鉄則。
そろそろこの章も、終わりが近くなりましたね。
p243の第2パラグラフ。
しかしながら、臨床の知のある人たちは、私がここで当然と見なしている次元に対する視点を見失ってはなりません。古典的な黄金律を読むと、最高善を目指して意識的に努力したくなりますし、とんがった意識でお互いに傷つけあうことのない様にしたくなるものですが、私どもはよくよく考えれば、倫理的な強さという土台が無意識にあることが分かると同時に、破壊的な激しい怒りという兵器庫も無意識にあることが分かります。前世紀において、動物の祖先からも、経済史からも、人間の内なる「敵たち」からも、無意識的な動機が出てくることを、人類は痛いほど人は気づきましたよね。しかしまた、前世紀においては、(あらゆる観点で)建設的に自己分析する方法もできました。こういったことは、自分を精密検査にかける方向へみんなが向かう傾向の、実用的な西洋版だと私は見なしていますが、その傾向は、アジアでは、このように高度なものにすでに達していました。自分自身に気付く方法を、新しい方法でも古い方法でも、どこででも通用する、微に入れ細にうがった、具体的なやり取りの技術力と結び合わせることが、次の世代の課題となるでしょう。
自分自身に気付くこと、それを具体的に実践できる方法とむすびつけて、ひびじっせんすること。それが、いつでも、どこででも、やり取りをするための条件ですね。
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