ユングの不思議に満ちた言葉が魅力的ですね。私は残念ながら、ドイツ語では、なかなか読めませんから、英語の著作集を中心に読み進めています。今晩は、ユング第9夜。今晩も、ユングの不思議な言葉をお届けします。ご一緒に、じっくり味わっていただけたら、幸いですよ。
今晩は、第9夜だから、という訳ではないのですけれども、ユング著作第9巻の1(Collected Works of C.G. Jung, Volume 9 (Part 1): Archetypes and the Collective Unconscious)『諸元型(いくつかの最初の型)と集合的無意識』pp.3-41、Archetypes of the Collective Unconscious 「集合的無意識の諸元型」から。ただし今回は、東京女子大学の林道義さんの翻訳(紀伊國屋書店)も参照しています。
ここでは、元型の内、影、アニマ、老賢者の3つの元型を、ユングは取り上げます。元型は、もともとの言葉が示すように、はじめの(arche)型(type)です。キリスト教では、したがって、西洋では、はじめはとっても大事です。「初めに、神が天地を創造された」からです(旧約聖書の「創世記」第1章1節)。
まずは、
「私どもが無意識に関心を抱くかどうかは、私どもによって、生きるか?死ぬか?の課題です」(前掲書,p.24)
無意識と言っても、個人的な体験の記憶を忘れ抑圧する「個人的無意識」と、人類に普遍的で、しかも、生まれながら持っている「集合的無意識」がある、と言うのがユングの立場ですね。ユングの先の指摘は、「個人的無意識」に関心を抱くことの大切さを言うばかりではなくて、「集合的無意識」に関心を抱くことの方にアクセントを置いて、こういう訳ですね。なぜなら、元型は「集合的無意識」に属するものだからです。でも、「普通」と思って生きている私どもは、無意識のことなど、考えずに生きている場合がほとんどじゃあないかしら? そういう私どもは、自分のこと、自分の仕事、自分の人生は、自分でコントロール出来るものだ、と言うウソを信じている訳ですね。無意識を知らないから、そんなウソを信じる訳ですね。自分で自分を騙している訳です。気の毒ですね。そんな人に限って、思いがけない「事件」、「想定外の事故」に出くわして、慌てふためくわけですね。そういう人は、「無意識の生け贄」になっても、そうだとも気が付かない(前掲書,p.30)。慌てふためいて、「こんなはずじゃぁなかった」、「運が悪かった」、「私も迷惑してんですね」などとホザクわけですね。
次は、
「水鏡を覗き込む者は誰でも、まず最初に自分自身の素顔を見ることになるでしょう。…水鏡はおべんちゃらを言わないので、覗き込む者を忠実に映し出すものです。つまり、世間に見せてない素顔を忠実に映し出すものですよね。ペルソナ、すなわち、装う者の仮面で、日ごろは素顔を、本音を隠していますからね。しかし、水鏡は、その仮面の下の素顔を、本当の自分を映し出します」(前掲書,p.20)
怖いでしょ。本当の自分、素顔を見たくないし、見せたくないので、忙しくしている日本人はゴマンといますからね。組織に同調して、本当の自分を見ないようにしている日本人も、溢れてますからね。そうしていると、やはり、思いがけない「事件」「事故」に出くわして、非常に残念な形で、本当の自分を見ることになるんですけどね。気の毒ですね。
最後は、アニマという元型に関する言葉です。
「アニマの叡智としての側面は、アニマを真実に理解しようとする者にだけ、姿を示してくれます。その時にだけ、この困難な課題に直面した時に、その人が、ますます理解するだけでなく、だんだんと、現実に実現するようになるのは、人間の運命を残忍なまで弄ぶ、アニマのあらゆる働きの背後には、隠された目的があるということ、そして、その目的は、生命のいろんな法則(訳注:闇の中に光があること、困ったなと思うことに、意義深い秩序があること など)に気付くという恵みをもたらしてく下さる、ということです。」
こういう叡智に気付けない人って、気の毒でしょ。
私どもは、男であれば、アニマと、女であれば、アニムスと、真実に向き合う毎日を過ごす中で、アニマ(アニムス)がくれる叡智を、日々実感していきたいものですね。
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