「生きている不思議 死んでいく不思議」とこの世を超えるヴィジョン
1つのテーマにも、そこにはいろいろなヴィジョンを孕み得ることが分かりました。ですから、ヴィジョンが投影された物事を鑑賞する者にも、それを読み取るためには、様々なヴィジョンの可能性に開かれていなければなりません。
生きていること、死んでいくこと。そこのある問いに応えるのが、宗教の課題であり、哲学の課題です。あるいは、心理臨床の課題でもあります。
その際に大事なのが、≪いまここ≫と超越。≪いまここ≫が大事なのは、生きているということは、第一に≪いまここ≫を生きることだからです。過去に囚われたり、未来が不安だと、≪いまここ≫を上手に生きられませんよね。
じゃぁ、≪いまここ≫を生きればそれでいいのか? それだけで喜んで生きていけるのか? ここの答えは一通りではないのでしょうね。しかし、単に≪いまここ≫だけが大事だと、それは果てしない自己中心にもなってしまいます。それは、日本の現在主義・現世主義が、「旅の恥は掻き捨て」「勝てば官軍」と言う調子の、ウソとゴマカシに、まみれていることを見るだけで十分かもしれません。あるいは、「『上』の言うことだから仕方がない」、「明日は明日の風が吹く」とばかりの≪無責任の体系≫がもたらす、あまりにも非人間的状況、悲惨、残忍さは、ノモンハン事件や南京大虐殺だけではなくて、福島原発放射能垂れ流し継続事件のように、今現在も汚染が進んでいる状況に思いを致せば、おのずから明らかでしょう。そこには、個人や所属集団を超越する価値がないから、結局は「組織」が神となる偶像崇拝の、誠に残虐な結末です。
ですから、私どもは≪超越≫、すなわち、個人や所属集団を超えた価値を内面化することが非常に大事になるわけですね。そうすることによってはじめて、個人と所属集団が、私利私欲を超えたコモン・センスを持つことができるからですし、他者の利益を自らの利益とすることができるからです。
私どもは、そういう意味では、≪いまここ≫における≪超越≫を、ハッキリと意識しなくちゃぁ、なりませんよね。
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