人間が破壊的武器を手にしたロボットになるのは、確信がないとき、根源的信頼感が脆い時です。アベシンちゃんは、その意味では、不信の塊です。
Young Man Luther 『青年ルター』p209の第3パラグラフから。
こういった、本気で実感しないと気持ちは残らないと言う定式化は、かつては革命的でしたが、現在の牧師先生にとっては、あたり前田のことです。この定式化は、今では一番膨れ上がった演説の流行の基本になっています。それは、教会や講演会、政治的なプロパガンダ、信条の上でのプロテスタント、口コミでも流行っています。それは、もともとは臨時の命令でしたが、真実は、全人格を掛けて本気になり、いつでも本気になって生きることだけを指す、ということです。私ども、プロテスタントの末裔は、真実に本気になるという響きを失ってしまって、形ばかりの単なる慣習、形ばかりの単なる見せかけになっています。
ルターの時は、ローマ・カトリックに対する命がけのプロテスタント、抗議でした。しかし、そうそう、命がけの抗議もできませんから、たとえルターの流れを引くプロてスタンドであっても、最初の命がけの本気は次第に失われて、形ばかりの習慣、形ばかりの見せかけを、自動操縦でやるようになってしまっています。
課題なのは、いつでも、最初の命がけの本気を取り戻すことです。
じゃぁ、どうすりゃいいの? が次の課題になりますね。
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