本田哲郎神父
ニルス・クリスティ教授と良心の話は人気があまりありませんでしたね。それでもいいんですね。
今日は、本田哲郎神父のお話。上の写真が本田哲郎神父です。神父と呼ばなければ、むしろ、どっかのお寺の坊さんかなぁ、と思うかもわかりません。1942年の生まれですから、今年73才です。もともとはフランシスコ会日本管区長までされた方ですから、その後は修道院にはいっても良し、大学で講義しても良しだったはずですが、大阪の釜ヶ崎で伝道することにしたそうですね。それから26年。小さな一間のアパート暮らしと聞きます。
何故なんでしょうか?
それは福音の理解は、全人格を掛けなくては理解不能だから、したがって、生活を掛けて福音を理解したいと願ったからだろうと考えます。釜ヶ崎と言ったら、日雇いの町、今では高齢化が進んでいますから、貧しく、しかも、もはやあまり働けなくなった高齢者の町でしょう。
本田哲郎神父の福音理解の特色は、何と言っても「低みに立つ」ということです。こういうと、「高いところ」にいる人が、その場を離れて「みずから低くなる」感じがありませんか? でもそうではないんですね。今も貧困が連鎖する、いつまでたっても、貧困から抜け出せないのは問題だ、と言われますでしょ。イエスの時代のイスラエル、ガリラヤは、今の日本よりもっと貧しさから抜け出すのは困難だったはずです。イエスもそのような貧しさの中で生まれ、育ちます。ですから、「低みに立つ」とは、生まれながらの貧しさの中に踏みとどまる、と言う方が正確でしょう。本田哲郎神父の主張もそのような感じです。
本田神父の福音理解の特色は、この「低みに立つ」点です。特に、「回心」と訳されてきた「メタノイア」ですね。本田神父は、この「メタノイア」を「視点の転換」とみます。Metaniiaとは nous判断力のmeta変化だからです。そして、「低みに立って見直す」ことだと言います。徹底してますね。しかも、それを机上で知的にひねくり出すのではなくて、貧しい生活をする中で、実感したことを大事にする中で、イメージしたことに忠実に言葉にしていっている訳ですね。ですから、このメタノイアは「痛みを感じる」ことでもある訳ですね。
ここまで来ると、本田神父が言う「メタノイア」は、ほとんどセラピストの態度だなぁと感じます。カール・ロジャースが言うセラピストの3つの基本的態度の1つ「共感的理解」は、「痛みを感じる」ことが現実には多いんですね。お母さんに相手にされていない子どもの痛み、すなわち、寂しかったり、悲しかったり、不満に思ったり、さらに嵩じてムカムカとして腹が立ったり、「クソババァ」と言いたいくらいの憎しみが湧いて来たり…。そういう気持ちを共感することは、相手の「痛みを感じる」ことでもある訳ですね。
じゃぁ、どうして、その「メタノイア」が、「救い」に繋がるのか?
それはね、「低みに立って見なす」とね、そこから相手とのやり取りが出来るからですよ。相手の子どもはね、「低みに立って見直している」人を前にするとね、裁かれないから安心できるんですね。何故って、裁く人はたいてい「高みに自分が立つ人」だからですよね。ですから、「低みに立って見直している人」を眼の前にしたら、ホッとするから、やり取りが生まれやすくなりますでしょ。「高みに立つ人」を前にして、「裁かれるかも」、「怒られるかも」と思って、緊張や警戒をしてたら、やり取りになりませんもんね。やり取りが出来るから、そこに天にも昇る、圧倒的な悦びが生まれます。
でも、それだけじゃぁ、ないんですね。低みに立って見直してるとね、相手の子どもと、その子どもの目線で「共に見る」ことが出来るようになるって訳ですね。そこから、意識と良心が、子どもの中に生まれるんですね。なぜならば、意識(consciousness)も良心(conscience)も、「共にcon+見て知るscience」だからですね。
ですから、子どもの意識と良心を育みたい、と思っているあなた、「メタノイア」、「低みに立って見直す」ことが必要ですよ。教壇や高みに立ってたんじゃぁ、できませんよ。
※ 明日7月5日(日)午前5時~NHK教育テレビの「こころの時代 宗教・人生」で、本田哲郎神父のお話が伺えますよ。
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