エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#キリストの神秘  と  #松任谷由実さん

2019-03-06 05:42:16 | エリクソンの発達臨床心理

 
#母親絶滅 #全体像 #神様の命が回転する場 #いまここに私がいると気付いてもらうことの恵み #なるほど本当だね #ビッタリの物差し
 インターメッツォ: エリクソンの叡智: 感情転移のカラクリ    タラタラしてる場合じゃぁない!   あらゆるものは、自然の力や神の意思で生かされている 小さ......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 

 発達トラウマ障害を英語で・英訳  英和辞典・和英辞典 Weblio辞典

 をご参照ください

 

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 今日は,これまで訳したところの訳しなおしです。p.213の初めから訳し直しました。8訂版。

 

 Young Man Luther 『青年ルター』p.213,第3パラグラフから。8訂版。p.212の第2パラグラフからも一緒に。

 

 

 

 

 

 これって,互いに仮面を被って相手に合わせたフリをし合う見方全ては,無意識から出たウソなのかしら?マルティンは,息子として,個人的に,深く苦しんだのは,自分が信頼感が豊かであることは本物だ,ということを父親に認めさせることができなかったからでしたし,生まれながらに,「子どもなんだから,ずっと私に従ってればいい」と,父親から言われ続けたからです。そのマルティンが,いまは,宗教的に,子どもとして,自ら歓んで生みの苦しみを引き受けているように思いましたが,それは,長すぎるくらい息子として苦しんだことが,自分がキリストのスピリットを示した勝利になってたんだ,と今は思えます。最初のおミサで,祭壇に正対して,すなわち,天の父なる聖書の神様に正対して,この世の父の怒りに正対するのを待ちながら,キリストがど真ん中に立つ人であることに関する聖句を「見落とし」てきていまし。しかしながら,キリストが自分の中に共に居ることに気付いた今,マルティンは,生きている実感を失って共依存するしかない生き方を超えて,心の中でホッとできる場所を見つけました。マルティンが見つけたのは,聖書の神様の声を聴く人が聖書の神様と一心同体になる神ですから,マルティンは,聖書の神様の御心を一歩前に進めたことになります。

 

 …キリストは,キリスト者が一心同体になる際の心深く秘めた大いなる優しさに,今やなりました。キリストは,いまここで,私の中に私と共に居るのです。生みの苦しみを歓んで引き受けることを肯定することが,毎日の十字架になりますし,毎日の十字架として相手の苦しみを歓んで引き受ける情熱が,(訳注:旧約聖書の時代に)他の人を犠牲の捧げものにした代わりに,最高に能動的に,心に秘めた大いなる優しさになったキリストが最高に生き自分を空っぽにして生きる,ということを肯定することになります自分を空っぽにして生きることを是としたおかげでキリストが選んだことを自分でも選んだことになつて,聖書の神様と一心同体になって復活する晴れ晴れとした生き方が出来ます

 

 人類が救い主として崇めた人たちは,決して朽ちることのない言葉の中で,自信をもって,空っぽを善しとする人は,なるべく自分にもウソは言わないし,なるべく人の弱みにも付け込まないことになるっている,という心眼を体得し,体現します。そのウソのない救い主たちは,不思議な声で,大切なことを証明するわけです。その不思議な声は,遥か彼方まで,世の終わりまで,届きます。人類が救い主として崇めた人たちが生みの苦しみを歓んで引き受ける情熱が含む原理は,自分で選んでいる原理,内に秘めた大いなる優しさになったキリストが生きる原理,何物にも支配されない自由になる原理であり,遅かれ早かれ,最高の王の名を手に入れます。いばらの冠も,救い主に従った者たちのティアラになります。しばらくは,ルターは聖書の神様の命が一巡する最初の単独者になりましたし,あの救い主を,ティアラや日曜礼拝や人間を上下で見るウソや思想警察から,救い出して,救い主であるキリストが復活する場である,ひとりびとりの魂に連れ戻したんですね。

 

 ルターが救い主であるキリストをひとりびとりの魂に連れ戻したことって,意識のレベルでは,ルネッサンスの人間主義と対の関係になっているのではないのか? ルターは,目に見える様々なことは科学に任せて,自分は,生みの苦しみを歓んで引き受けることと,聖書の神様を信頼すること,すなわち,自分が本気になっていることに,集中しました。自分の父親や教父たちの,あの顔と,天にまします父なる聖書の神様の,あの顔を曇らせていた怒りの雷雲を追っ払ったルターは,いまは,キリストのように自分を空っぽにする大いなる優しさを体現する生き方そのものが「いつでもどこででも」聖書の神様の顔だ,と言ったんです。大文字のパッション,すなわち,キリストの十字は,人間が聖書の神様についてる知りうる全てです。人間の様々な諍いは,正面から正しく,諍いの顔を見れば(諍いを直視すれば),人が自分自身を知りうる全てです。最後の審判は,いつでもどこででも,いまここでの自己判断です。キリストが生きて死んだのは,人間が将来の最後の審判に怯えて,貧しくなるためじゃない。人間がいまここで大いなる優しさに包まれて,最高に気高く浄めらて生きるためです。

 

 

 松任谷由実さんの歌「やさしさに包まれたなら」は,ここでエリクソンが明らかにしたことを,歌っていると,私は確信しますね。

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