道徳性には、ウソがつきもの。そのウソには、また、イジメがつきもの。
p226の第三パラグラフ。
「真に」倫理的な感じは、若者には、道徳的な抑圧や理想的なヴィジョンを含み、かつ、それを超越します。その感じは、このような親しい関係や仕事の付き合いに具体的に関わることにこだわることでもあります。人はそのことによって、人生を実もあり花もあるものにしたいと願うのですね。しかし、新米の大人は危険も孕んでいます。この危険が、道徳家の「正しいことを押し付ける姿勢」を増し加えますし、ある価値に熱狂して他者を排除することも加えます。さらには、自分の地上の要求を正当化し、他と区別し、しかも、組織への帰属意識の中に永遠の安心感を得る縄張り意識が増し加得ることになります。このようにして、黄金律が、あらゆる種族と民族、あらゆるカーストと階級、あらゆる道徳と価値を、最もうまくいった場合、その全てを包み込むような黄金律が、一貫して他を排除するものとなります。しかも、その排除は、誇りを持ち、迷信を信じるように、悪意を抱いて、「外」の人たちと助け合う倫理的な立場を否定するんですね。
いかに若者が危ういか分かりますよね。本来は、人と分かち合うはずの黄金律でさえ、排除の論理にすり替わるかもしれないのですね。
私どもは、いつでも意識したいことがありますね。それは「一つの人類」「人間皆兄弟」ということです。その原点に立ち返って、黄金律も、政治家のやることも、視ていくことが大事でしょう。
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