“糞づまり”から出た宝物 「幸いなるかな」への不可欠な道 四訂版ルターは、改革や刷新とは無縁な「中世的人物」と思われていたみたい。偉大な改革者とは全く無縁に見えた、ということらしい。でもね、…。 p176...
良心や洞察力みたいに、人間らしさの源を求めて、悪い良心から解放することは、何よりも大事なことなんですね。ですから、子どもを悪い良心から自由にすることほど、大事な大人の務めはないんですね。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.253の、4行目から。
ルターは、人間が神からかけ離れていることを、実存的で、絶対的なこととして認めました。それと同時に、「私がこれだけやったんだから、神様は救って下さるはずだ」という取引をすることを断固として拒否しました。フロイトは、人が人と取引する際に、傲慢不遜にも自由意思を要求したり、公平に善意を要求したりするよりも前に、人は無意識裡に道徳や現実と取引するものだ、ということを何としてもよくよく知っておいた方が良い、とそっと教えてくれています。
ルターも、フロイトも、ふつうは意識できないところで、心が取引をしていることに、よくよく気付いていたことが分かります。2人とも内省に内省を重ねた結果、この気付きを与えられていたことに間違いありません。言葉を換えて言えば、2人は、一日一日を、目的や問いを見失って、自動運転で生活するのではなしに、「今日は、どんな一日だったかな?」「明日はどう生きたいと自分は思っているのかなぁ?」「神様の御心はどこにあるのかなぁ?」などという問いと共に、日々暮らしていたからに違いありません。
私どもも、問いある生活をしていたいですね。
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