売り物は自分自身だ 三訂版「売り物は自分自身だ」。そう語るのは、最もセクシーな男性として2度評された、ジョージ・クルーニーさん。でも、クルーニーさん、セクシーなだけじゃぁない。非常に知...
なぜ、日本の学校には、イジメが後を絶たないのでしょうか?
日本の組織は、日本軍がなくなっても、日本軍みたいな、イジメの組織、上意下達の組織であり続けている、ということが、大きいと、私は考えます。日本軍は、イジメの組織であると同時に、無責任体制の組織でもあります。これは、日本の組織が、いとも簡単に、無意識の暴力に晒されがちだ、ということなんですね。
でも、従来の私は、イジメの問題を、組織が無意識の暴力にされさらているからだ、という所で、思考停止にあったと、感じています。それは、子どもと遊んでいて気付いたことなんですね。
先日、東京でも雪が降りましたでしょ。雪+遊びとなれば、雪合戦ですね。私も「遊びのオジサン」ですから、どこの学校に行っても、子どもたちと雪合戦の毎日を過ごすことになりますもんね。先日も、ある学校で子どもたちと雪合戦になりました。その時には、クラスほぼ全員 vs 遊びのオジサン+4人 と言う対戦カードになりました。すると、クラスほぼ全員が、誰を狙うか? と言いますとね、やっぱり「遊びのオジサン」ということになりがちでしたね。20人くらいの子どもたちが、次から次へと、実に愉しそうに、遊びのオジサンを追いかけて、雪ツブテをぶつけてきます。遊びのオジサンも逃げながら、もちろん逆襲するんですよ。それでも、いかんせん、多勢に無勢。コテンパンにやられてしまいました。
それで気付いたんですね。遊びのオジサンは、いくら雪ツブテをぶつけられても、逃げ回ったり、逆襲したり、「こんにゃろー」などと言いながら、雪ツブテをぶつけ返したりして、結構楽しいんでやりますよ。だからこそ、子どもたちも、楽しく、雪ツブテの集中砲火を加えてくることが出来るのでしょう。でも、これって、猛烈な攻撃性の表れでもあるんじゃないの? これが、特定の子どもに向かったら、すぐにイジメと言われるんじゃぁないの? って気づいたんですね。
そうして、も一つ気付いたんですね。遊びの機能には、いつくかの機能があるんですけれども、その大事な機能の1つに、子どもが受け身で体験したことを、遊びの中で能動的に再体験することで、折り合いのつく体験にする、という機能があんですね。子ども等が、こんなに攻撃性を示すのは、大人(家でも母親、学校では教員)から、攻撃され、「侵襲的」な関わりをされているからではないのかなぁ? だからこそ、攻撃され、「侵襲的」な関わりをされている受け身の体験を、雪合戦の中で能動的に再体験して見せた、と言えるのではないのかなぁ?
このように考えると、日本の組織が無意識の暴力にされされているだけじゃぁないですね。日々の母子関係、教員‐子ども関係が、上下関係、支配と服上の関係であることを止めて、やり取りのある関係、≪共に見る≫関係にしていかないかぎり、日本の学校では、イジメはなくならないなぁ、と実感した次第ですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます