神様はいついかなる時も≪いまここ≫に私どもひとりびとりと≪共にある≫存在なんですね。これを、良い知らせ=福音と呼ばない手はありません。
p356の3行目から。
ですから、この譬えの意味するところは、家父長制で、一神教の場では、父なる神様は、ひとりびとりを、親のように面倒を見てくださり、ひとりびとりを許してくださる、ということです。その許しのおかけで、父なる神は迷子になっている者たちに完全に信頼を寄せることができます。すなわち、危険を冒した者たちを完全に信頼することができます。それは、その迷子になった人たちが自分自身と神様を見つけるためなんですね。「放蕩息子」の物語は、このように、世代が継承され、いまを生き続けることを肯定してくれますし、食卓を共にする悦びによって肯定するんですね。
「放蕩息子」の譬えの解き明かしですね。それは、自分自身と神様を見つけ出すことだと言います。反対から申し上げれば、人は神様を見出すときに、初めて、それと同時に自分自身を見出すことができる、という訳ですね。
うまくできてんですね。
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