エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日本の公教育の病理 その6 組織に対する偶像崇拝と≪超越≫する価値

2014-12-06 11:26:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日本の学校が「ウソとゴマカシ」の組織と化している最大の原因にして、根本の原因は、エリクソン流に申し上げれば、idiolism 偶像崇拝です。それは「他者を欺くだけではなくて、自己をも欺くもの」とエリクソンは言いますね。赤ちゃんの時期にお母さんとのやり取りが十分にできない場合に根源的不信感に傾いちゃうでしょ。そのような傾向のもたらす心のあり方を、エリクソンはritualizm 儀式主義と従来訳されていますが、それはもう形式主義、あるいは、「お飾り」、と言った方が、より適切かもしれませんね。なんせ「事実にも原則ともやり取りがない」し、「おざなりになり、ねばならないからやる」ことになるからですね。偶像崇拝は、ヌミノースが心の底から湧き上がる、圧倒的な悦びであるのに対して、その「ヌミノースに対する畏敬の念を打つ壊しにするモノだ」とエリクソンは言います。

 日本の学校がやる偶像崇拝の場合、何を神にしているかといえば、それは自分が所属する組織、学校、ないしは、教育委員会なんですね。「教育」だとか「憲法」だとかは、本来、所属する組織を≪超越≫するものですが、学校に属する教員たちは、それらを認めない。「教育」や「憲法」よりも、組織を重要視する。その結果が、組織と上司の意向を極端に恐れることに繋がる訳ですね。もちろん私は、組織や上司の意向を無視していい、などと申し上げているんじゃぁない。そうではなくて、一定程度、組織や上司の意向を尊重するのだけれども、それはあくまで、組織や上司の意向が、それらを≪超越≫する「教育」や「憲法」などの価値に従っている場合に限られるべきだ、ということを申し上げたいんですね。その範囲であれば、私どもは組織や上司の意向に従うべきでしょう。なぜなら、その範囲であれば、組織を超越して、日本の一般市民への奉仕になりうるからですね。

 でも、組織が偶像崇拝になった場合、それは組織や上司の意向が、≪超越≫する価値よりも、重要視されるようになりますから、それは組織が堕落する、「はじまり、はじまり」、ですね。大川小学校の「事件」で明らかなように、組織防衛のために、「ウソとゴマカシ」を連発し、露骨に「隠ぺい体質」を露わにするんですね。「組織が一番」と言う偶像崇拝の、実に恐ろしい結末です。子どもが何十人死のうとお構いなく、組織を守ろうとするオゾマシサ!

 私どもは、そんなオゾマシイ結末を回避し、人間らしい暮らしに役立つ学校にするためには、「教育」、「憲法」、それから、たとえば、「子どもの権利条約」などのような、組織を≪超越≫する価値を、日常生活の中で活かしたいものですね。

 

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