ファリサイ派。真面目な人たち。でも、心はどうかしら? 文字通りクエッションマークの人たちです。
たとえば、ルカによる福音書第六章7節には「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒されるかどうか、注目していた」、とあります。揚げ足取りでしょ。人の悪いところを探してんですね。
これに対して、イエスは、病気の人に手当をして、「尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか。悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と尋ねたとありますね。かたやファリサイ派の人たちなどは、怒っちゃいましたね。真面目な人のありがちでしょ。そして、イエスを殺そうと計画するんですね。
何故なんでしょう? 真面目な人が怒り狂い、相手を殺そうとするなんてね。でも、これは、聖書の中で語られているからって、2000年前の話ではないんですね。今の日本でもバッチリ通用します。先日このブログでご紹介した、給料泥棒の教員のお話。管理教育をしている人たちは、まさに「ファリサイ派」なのですから。
真面目人間は、「〇〇ねばならない」の塊。そして、「〇〇ねばならない」ができた時だけ、自分を、相手を評価できます。逆に、「〇〇ねばならない」ができなければ、「私はダメだ」、「あなたはダメね」となります。
こうなると、ファリサイ派の人たちと同様、何のために、「〇〇ねばならない」のか? という問いを忘れて、「〇〇ねばならない」自体が自己目的になっちゃうでしょ。本来は、「〇〇ねばならない」は、人にやさしくするため、人を労わるため、人の痛みを和らげるためにあるはずなのに、それを忘れちゃう。
「〇〇ねばならない」と考えるのは、自分の闇、悲しみ、怒りを、自分一人で解決できる、と妄想しているからです。でもね、それを解決するためには、相手が必要です。遊び相手が必要です。悦んで相手をしてくれる人が必要だ、ということに、まだ気づいてないんですね。ですから、1人で解決しようとすればするほど、「できない」に繰り返し出合います。1つ1つは、「悲しみ」や「寂しさ」や「不満」です。だけど、それが1000回、10000回となれば、それ「激しい怒り」「人を殺したいと思うほどの憎しみ」に変わってきます。
これが冒頭で引用しましたルカによる福音書に出てくる「律法学者たちやファリサイ派」であり、給料泥棒の管理教育の人たちなんですね。
ですから、そういう人たちには、本物の悦びと、陽気で楽しい雰囲気が、何よりも大事ですね。たとえ相手が自分を「殺そうとする場面」でもね。
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