エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#ウソとゴマカシだらけの現実 と #聖書の神様の命 #神様はお見通し!

2018-12-01 10:26:31 | エリクソンの発達臨床心理

 
現世考: #情報操作される私たち #私の嗤い
 発達トラウマ障害(DTD)の症状と自然災害トラウマの人の症状とは、大違い   大人の責任ある態度   思い違いだらけ、ニッポン!  「がんばれ、ニッポン」。東京オ......
 

 

 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.117,4行目途中から。

 

 繰り返し行う,日常生活を礼拝にする礼拝

 

 さて,いま,この本のど真ん中を通り過ぎて,私が日常生活を礼拝にすることや,日々の礼拝が発揮するあの力を,殊の外,大切にしていることに,お里が恋しくてお里を守らなくちゃとばかりに抗議する読者もおられるやもしれませんね。日常生活を礼拝にすることや日々の礼拝が,「上手に働く」と,私がほんとうに思っているんでしょうか,とか,日常生活を礼拝にすることや日々の礼拝が,人格や仲間にとって欠くべからざるものと,私が思っているんだろうか,とか,思っている読者もあるいは,おられることでしょう。それに,もしも,こんな「生まれながらの」やり方が,仲間を作る動物や,原始社会やある種の伝統的な社会の中で見ることができるならば,私がここで図表にしたことの核心は,どうしようもない危機のように見えますが,人口が増えすぎて,汚染され,工業化され,機械化された現代社会には,役に立たないのかもしれません。人間の中で,日常生活を礼拝にすることが進化論上極めて大切だ,とすれば,特に,新しく心から優しい話し言葉を話す日常生活を礼拝にする礼拝を創造する,今に合う道をいかにして見つけ出すのか,という問いを,回避することができるでしょうか? この日常生活を礼拝にする礼拝は,マスコミによるものであったり,あるいは,動物行動学者や精神分析家の訓練し過ぎたお眼鏡には適わないかもしれないやり方であったりします。私自身が申し上げたように,驚き感激するヌミノース自分が生きている実感を善しとして生きる指針にすることや,生きている実感を遊びにすることや,生きている実感通りに繰り返し生きることは,1つの新鮮なスピリットからのみ生まれますから,全てはキリストのおかげです。この新鮮なスピリットであるキリストは,究極的には,人類全てと一心同体になることを具現化しますから,人類皆兄弟が現実になります。というのも,私どもは,全部が全部,いま一時的に流行りの生き方はしていても,「人間らしい,心から優しい存在」に,最深欲求と結び付けて本気で,なっていない場合がほとんどでしょ?

 聖書の神様が創造の前に天からお示しくださった,もう1つの地図に関しては,私の学生さんたちは,「こういった綺麗な指針は,エリクソン自身が心から礼拝で確信しきたことなんだろうか」とずっと疑わずにいたんでしょうかね? 「様の命が一巡するのって,特権的な人だけができることなんじゃないの?」私が示した人生地図は,理にかなった,命を育むガイドブックみたいなものだ,ということに訝る向きもおありでしょう。でも,そういう疑り深い人たちは,ハッキリとしていることまで否定しがちです。すなわち,大人とは,人生の様々な舞台で,陽気で楽しいことを失ってしまっている,という事実によってまさに定義される人が多い,ということです。貧しくて,ゆとりのない人ばかりではなく,ゆとりが多い恵まれた立場の人も,陽気で楽しいことを失ったら,人はバラバラのままになりますし,生きている実感を感じなくなります。陽気で楽しいを失った大人が,その子どもたちに与えるゆとりにとって,大人たちがさまざまな舞台で陽気で楽しいことを失ってしまっているということによって,大人になることから,あの聖書の神様の命漲る歓びをなくしてしまいますし,結局は,反抗そのものも失敗して墓穴を掘るだけです。

 こういった様々な留保に対して,ここで私が申し上げるのは次のことだけです。様々な生き方をよくよく見てごらんなさい。今日の工業化した市民社会が,以前より,より多くの人と,より大胆に自由に,赤ちゃんのころと,大人同士の関係を,繰り返し,日常生活を礼拝にしようとしているのか,をよくよく見てごらんなさい。そうすれば,さまざまな学問を交えた議論か必要になるでしょう。しかしながら,私が指摘したいのは,1960年代に散発的に起きた若者たちの反乱の中で,全人類を大切にする,日常生活を礼拝にする礼拝の作り直しが,果たして行われたのか? という重大な問いが問われるようになったのか? ということです。あの反乱は,全ての対になる心耕す生業同様に,(訳注:弱い立場の人の痛みに対する)想像力をなくしていることに対する腹の底からの痛みと,高い代価を支払わなくてはならない,(訳注:弱い立場の人の痛みに対する)想像力をなくしていることを,世の指導者たちが否定していることに対する,心の底からの痛みとを示していたんです。その世の指導者たちは,若者たちを血塗れの源である戦争の中で「奉仕させる」ことに頼り続けていますから,若者たちは,その血塗れの源である戦争は,互いに大切にし合う目的には適わないと感じましたでしょ。それは,序文で示した引用が示すように,植民地戦争という,ウソとゴマカシだらけの現実でした。植民地戦争という,ウソとゴマカシだらけの現実は,ますます,殺しすぎる化学兵器に頼るようになりましたが,同じくらい,ますます,人を絶望的に不安にさせることになりましたでしょ。ウソとゴマカシだらけの現実じゃぁ,聖書の神様から頂いている命をイキイキと生きる者にとっては,聖書の命の一巡する中では,聖書の神様の命が生きる「命の道」としては,その命が生まれませんし,死んでも死に切れません(殺され損です)。



 ウソとゴマカシだらけの現実ですと,エリクソンが正確に指摘している通り,聖書の神様の命が生まれませんから,互いに大切にし合うこともできず,結局,諍い,争い,戦争になります

  しかし,ウソとゴマカシだらけの現実を作り出す者は,結局は,墓穴を掘ることに相場が決まっています

 たとえ,ウソとゴマカシによって,自分と人はだませても,

 聖書に神様をだますことはできないからです。

 

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