暗黒時代と言われている中世ヨーロッパと、日本は、どうしてここまで似ているんでしょうか?
Young Man Luther 『青年ルター』p.224の、下から5行目途中から。
ジョン・ウィクリフは、ルターが生まれる100年も前に、聖書を、ジョン・ウィクリフ当時の話し言葉である、英語に翻訳しましたから、イギリス人たちは、もともとの聖書の言葉を、ローマカトリックの独占支配の呪縛から、解放して、耳にすることができました。ジャン・フスは、同様に、いろんな像を崇めることや行いを強調することに反対しましたし、さらに民族主義的な炎を燃やして、ジャン・フスも聖書を、話し言葉のチェコ語に翻訳しましたから、ルターみたいに、聖書に鑑みて自分は的外れと「教えられる」はずだ、と言ったものです。
日常の言葉と言うのは、気持ちを表現しやすいでしょ。それだけ体感的、腑に落ちやすいものですね。言葉と言ったら、下手をすると、頭だけ、知的操作に終わってしまいます。それだと、日常生活とは関係ない、書斎だけの、あるいは、時々教会に行ったときだけのものになりやすいです。しかし、それは偽物の始まりにしかすぎません。大事なのは、日々を、時々を、御言葉を実感しながら生かさせていることだからですね。
御言葉の力は、ダイナマイトのような圧倒的な実現力、現実になる力があることを、日々の生活で実験したいものですね。そのときはじめて、圧倒的な悦びを実感できますからね(でもね、それは「クリスチャン」に限られたことではないことを、申し添えます。意外に公的に認められてるクリスチャンは、これをやってない?)。
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