創造する。といっても、真似や同調することが多い日本人には、ビ〜ンと来ないかもしれませんね。でも、そもそもこの「創造する」は人間業ではないんですね。
ヘブライ語の「創造する」=パーラーは、神様しか主語にならない、特別な言葉だそうです。上智大学教授で、旧約学がご専門の雨宮慧先生がそう仰せですから。今晩は、創造の原点から、「人間とは何か?」を考えたいと思います。それは私ども心理臨床家にとっても、本源的な課題です。
旧約聖書の「創世記」の創造物語は、第1章(1章1節~2章4節前半)と、第2章(2章4節後半~25節)とに1つずつ、都合2つの創造物語があります。第1章27節は、
「神はご自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女を創造された。」
ここで注意していただきたいのが、「神にかたどって」とは、どういうことか? ということと、「人を創造すされた」=「男と女を創造された」ということですね。
まず、「神にかたどって」とは何のことでしょうか? いろいろ言えそうですね。しかし、人が7日目に創造されたのは、6日目に創造の業を終えて、その創造のすべてが「極めて良かった」と神自身が振り返って宣べられた後だったこととを考えてみる必要がありそうですね。それは、人が「自由意思」を持つ存在として、しかも、極めて良かった創造を共に味わう存在として、創造された、と考えることができます。ですから、人間は、本源的に「自由」で、しかも、「神と対話する存在」だ、ということですね。
次に、「人を創造する」=「男女を創造する」ということ。これは、人は本来2人が1セットだ、「対なる存在」だということでしょう。人間は、いま触れた通り、「自由意思」を持っています。ですから、対なる存在として、それぞれのパートナー、その場その場の眼の前の相手と、相対する存在であり、相対することを「自由意思」で選択することを予定されている、ということでしょう。あるいは、対になる相手と対話するように「自由意思」で選択することが要請されている存在だ、ということです。
もう1つの創造物語では、神はまず人(アダム)を創造します。しかし、「人が1人でいるのは良くない。彼に合う助ける者を作ろう」と言って、神は、人のアバラから女を創造したと言いますね。ここでは、女はイシャーと呼ばれ、男はイシュと呼ばれます。ここでも、その呼び名から分かりますように、男女は一対の存在であることが分かります。この「合う」と訳されている言葉は、雨宮慧先生によれば、「向き合う」という意味だそうです。すなわち、人間は、神と対話するだけではなくて、人間同士も「向き合い」、「対話する」ように、創造されていることになりますね。
さて今晩の結びは何になると思われますか?
それは、人は本源的に、神と対話するようにできていること、そして、人とも対話するようにできているということです。でも、それだけじゃぁない。私が申し上げたいことは、この2つがパラレルだということです。
すなわち、神様と対話して、≪本当の自分≫を生かしながら生きていると、その分だけ、人と対話して生きていくことができる、ということです。
この真逆は、人は神(自分や現世を超えた存在)との対話を忘れ、≪本当の自分≫を生かせないほど、人とも対話ができないということ。
それはまた、人と対話ができないで、ウソとゴマカシをやったり、コントロールしようとするのは、≪本当の自分≫が死んでるからだ、ということですよ。
どうぞ、ご自分をご大切に、っね!
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