エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪いまここ≫がイメージに結びつくときにいただく、生きる悦び

2014-07-30 05:12:58 | アイデンティティの根源

 

 ≪私≫は、≪いまここ≫を生きることができると、それはすなわち、イキイキ、ピチピチ生きていることなんですね。多くの場合、多くの人が、知らず知らずのうちに過去に囚われて(過去に体験したことにベッタリくっついた激しい怒りなどが、無意識裏に≪いまここ≫に出てきて)、≪いまここ≫を、≪いまここ≫を≪共にする≫相手と生きることができないんですね。あるいは、多くの人が、多くの場合、将来を悲観して、予期不安に囚われて、≪いまここ≫を、≪いまここ≫を≪共にする≫相手と生きることができない。いずれにしても、それはそれは、とっても残念なことですね。真の意味で≪私≫を活かして生きることができないからですね。だから、腹の底から悦べない。

 今日は、p329の4行目から。

 

 

 

 

 

 

 ガリラヤの言い伝えに、歴史的場から近づくためには、しかしながら、当時のガリラヤの時代と場所を、≪超越≫しなくちゃなりません。ガリラヤは、その田舎、その海辺の狭さの中にありましたが、それにもかかわらず、エルサレムに通じる幹線道路上にあり、ヘレニズム世界やローマにも通じていたことを記してきましたね。私どもは、この幹線道路を伝ってユダヤの首都まで行って、ユダヤの地を、より広い世界にする歴史のいくばくかを考えなくちゃなりません。それから、私どもは、人間的な≪私≫という課題に、過去の歴史や現代の歴史的変化が示す、世の中に対するイメージが大事であることとの関係の中で、あっちでもこっちでも、近づかなくちしゃぁ、なりません。

 

 

 

 

 ≪私≫が、人々が共有する、世の中に対するイメージと結びつきを深める時に、イキイキ、ピチピチしていけるんですね。その「人々が共有する」といった時の「人々」が、「人間皆兄弟」に至るほど広ければ広いほど、イキイキ、ピチピチできるんです。すくなくとも、自分と自分の所属集団を遥かに超えている必要がありますから、日本人には苦手なこの点にご注意くださいね。

 

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