全く意外な事実の目録がいつも、圧倒的な幻と意外な洞察を含んでいる、というのも不思議ですね。
本物の宗教的な経験においては、このように我知らずに叫んでしまうことは、まるで悪霊に命じられているように聞こえます。すなわち、そのような叫びであれば、明快で明白で、強烈に覚えているでしょう。ルターの発作においては、ルターの言葉は、罪を否定しなくてはならない、という、明らかに圧倒的な必要性を示していました。十分な宗教的な発作ならば、信頼という肯定的意識によって、口にする話し言葉が司られ決められるでしょう。でもここでは、否認と犯行が支配します。「私は、父さんが『お前はこうだった』と言ったものでもないし、私の良心は、悪いときでも、今の私を価値あるものと認めてくれます」。このようなたわごと、呻きは、さもなければ抑圧された激しい怒りと言う強烈な要素を示していました。そして、現実問題、この若者は、後になれば、世界に轟く1人の代弁者になりましたが、当時は沈黙と祈りと言う修道僧の身分でした。この時には、ルターはペコペコするほど控え目で、ヒリヒリするほど悲しく、強迫的なほど自分自身を監視していました。ルターの先生が厳格な宗教的志向だったから、一層その傾向を強くしたものでした。しかし、概して申し上げれば、この発作は神聖な場で起きましたし、聖書の物語によって暗示を受けていました。これによって、すべては、精神病と宗教の間の境界線上に少なくとも位置づけられます。
ルターの発作は、精神病にも宗教的にも意義あるものになる可能性のあるものでした。
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