今日からフーコーの講義も二日目に入ります。そのタイトルは「『パレーシア』と言う言葉の発展」です。
次にこのセミナーで私がしたいことは、「パレーシア」のあらゆる次元と特色を研究し分析することではなくて、むしろ、パレーシアの勝負が(紀元前5世紀以降の)古代の文化において、キリストが登場するまで、発展する側面を示し、強調することです。3つの視点から、この言葉の発展を分析できる、と私は考えています。
1、パレーシアとレトリック
まず初めには、「パレーシア」がレトリックとどういう関係か、ということです。それは、エウリピデスの文書においてさえ、不確かな関係です。ソクラテス・プラトンの伝統では、「パレーシア」とレトリックは、鋭く対立します。そして、この対立は、例えば、『ゴギア』において非常に鮮明に出ます。ここでは、「パレーシア」という言葉が登場します。切れ目なく長々と話をすることは、1つのレトリック上の、洗練された手立てです。一方、質疑を通してなす対話が、「パレーシア」にとって典型です。つまりそれは、対話こそが、パレーシアの勝負をする際の主なやり方なのです。
ここからハッキリします。対話が「パレーシア」の主なやり方だとすれば、「パレーシア」は民主主義にとって、根幹をなすやり方である、ということが、です。
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