イメージ。心理臨床をしていますとね、このイメージの力を感じずにはいられません。河合隼雄先生は、『臨床心理学ノート』(p44)で、このイメージを、「心像として視覚的に把えられることに臭いや体感など、人間の存在全体としての言語以前の体験を指している」と指摘しています。それはそれは「深い体験」と結びついているわけですね。
ですから、このイメージは、簡単に概念化、言語化はできません。たとえ概念化、言語化できたとしても、それは最初の体験が宿していた体験の生命力を削ぎ落としてしまいかねません。近代科学を模範とするような概念化には、むしろ、警戒することが必要です。
心理臨床は、このイメージの力を使って、進んでいきます。それはまず、心理臨床家の個人的体験と深く結びついたものでなければなりません。すなわち、臨床家自身の体験が必要なんですね。でも、それはただ単に「体験していればいい」というたぐいのものではないんですね。その体験を、その多くの体験は、受け入れがたい体験、許しがたい体験、耐え難い体験…であるんですね。そのままでは、「いただけない」。その体験を「物語」にして、自分の中で折り合いがつく体験、いいえ、もっとはっきり申し上げれば、「またのない恵み」として位置付けることができる「物語」にしておくことが必要です。
そのためには、繰り返し繰り返し、その「2度と見たくもない体験」を繰り返し繰り返し見つめ直す、という内省、自己内対話が必要です。まるで難しい本をリリード、繰り返し読むのと似ています。
そうしておくと、クライアントの話や箱庭などから感じるイメージが、「物語」として見えてきやすくなりますね。それはクライアントが心深く抱え込んでいる、「否定的な情動がべったりと付いた体験」と深く結びついたイメージです。でも、そのクライアントは、そのイメージを「物語」にして受け止めるまでには至っていない。
心理臨床家は、しかし、そのクライアントの「否定的な情動がべったりと付いた体験」を体験したことはないのですが、臨床家自身の「否定的な情動がべったりと付いた体験」は体験し、それを「物語」にして「宝物」にしていますから、その「宝物」にした体験そのものが物を言います。少なくとも、そう考えると合点がいき易い。もちろん、クライアントの体験と臨床家の体験が同じではないことが普通です。それでも、物を言います。
それは、「否定的な情動がべったりと付いた体験」を「物語」にするに至るイメージの力だと私は考えます。ですから、表向き臨床家は、何にもしないんですね。そして、表立っては何もしないで、心の中で「物語」のイメージが湧いてくるときに、最も素晴らしいセラピーができる、という訳です。そのイメージは心理臨床家が作りだしたものじゃない。何しろ「湧いてくる」のですからね。
イメージは時として、水平線から登る太陽のように、「湧いて」来ます。そう、「まれびと」のように、向こうから「やって来る」。
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