パレーシアは、自分自身を大事にすることと結びついてついていることが分かりました。こういうことを今に日本で申し上げると、「自己中心」と区別できなくなる方が、出てくるかもしれませんね。ウソとゴマカシで、自分(の会社)の眼の前の利益のために蠢いている輩を、「猪瀬」だとか「安倍」だとか、「阪神」「阪急」「小田急」「西部・そごう」「JR」だとか、「みずほ」だとか、「東京電力」と言う名のウソつきゴマカシ組織に嫌と言うほど見せつけられてきましたからね。
そんなウソとゴマカシと、ここで申し上げる自分自身を大事にすることは正反対なのです。なぜなら、ここでいう自分自身を大事にすることは、「最深欲求」と結びついているからです。
エピクロス派の時代までは、「パレーシア」が自分自身を大事にすることと密接に結びついていることは、「パレーシア」そのものが、第一に「魂の教育」を目指して魂を導く技術として認められてきました。フィロデモス(紀元前110-140)は、たとえば(彼は、ルクレティウス[紀元前99-55]と共に、紀元前一世紀において、最も重要なエピクロス派の作家です)、『パレーシアについて』というタイトルの本を書いています。この本は、エピクロス派の仲間の中で、お互いに教え合い、助け合うのに役立つ技術実践に関心があります。私どもは、このパレーシアのいくつかの技術を良く調べることにしましょう。これらの技術は、たとえば、エピクテトスやセネカなどのストア派の哲学者たちの中で発達したのでした。
先にも記しましたように、パレーシアが自分自身を大事にすることは、意味が深く、自己中心とは真逆でして、「最深欲求」と結びついています。それフーコーは、「魂の教え・鍛錬」と呼んでいます。
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