第二イザヤ(『旧約聖書』の「イザヤ書」は、三つの文書を1つにしたもの、とする有力の説があり、その二番目の部分をこう呼びます)に、「主のしもべ」というくだりがあります。53章です。その部分に触れた、本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。
「主のしもべ」というとき、イザヤは具体的にだれをイメージしていたかといえば、やはりさきほどの正義の樫の木と呼ばれる「アナビーム」、貧しく小さくされた仲間たちと同じく、バビロン捕囚の状態にあったイスラエルの民なのです、すべてをそがれてしまった。その彼らを1人の人物として疑心化して描く、それが「主のしもべ」です。
この「アナビーム」、抑えつけられている人たち、小さくされた貧しい人のことです。その人たちは、主の、神様のしもべ、とするのが、ユダヤ教の立場であり、キリスト者の立場です。そして、キリスト者は、この「主のしもべ」に十字架に付けられたイエス・キリストのひな形があるとする立場です。
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