上辺だけで人を大事にするフリをするのは、人を大事にすることに心を籠められないから。それは本当に自分が大事にされたことがないから。
p77の第2パラグラフ。
資本主義社会は、一方では政治的自由の原理に基づいていますが、他方では、あらゆる経済的な関係の調整役、したがって、あらゆる対人関係の調整役でもある市場原理にも、基づいています。商品市場が、商品がやり取りされる条件を決定しますし、労働市場が、労働力の需給を調整します。役立つモノでも、役立つ1人力や技術でも、商品になってしまいます。この商品は、力づくでもなく、詐欺を働かずとも、市場の条件下で取引ができます。靴は、役立ちますし、必要とされますが、市場で求められなければ、経済価値(交換価値)は全くありません。人間の力でも技術でも、現実の市場の条件下でニーズがなければ、交換価値は全くありません。資本家は労働力を買うことができますし、投資家の利益のために労働者に働くように命じることもできます。労働者は、餓死したくなけりゃぁ、市場の条件下で労働力を資本家に売らなくちゃぁ、なりませんね。経済構造は価値のヒエラルキーに反映されます。資本家は労働者に命令します。大量に集めたものなら、死んだものでも、労働者や人間の力や生きている者よりも、価値がある、という訳です。
資本主義といえば、何でもかんでも、市場原理でやろうとすると、人間らしい暮らしが壊されます。「なんでも鑑定団」のように、なんでもお金に換算しちゃうと、味気ないでしょ。
先ごろ亡くなられた宇沢弘文教授がおっしゃるように、人間が市場で取引できるのは、ごく一部。人間にとって最も大事なことは、市場では取引ができません。その最たるものが、赤ちゃんの世話でしょうね。赤ちゃんの世話は、母親の献身なしには成り立ちませんが、ここに市場原理を持ってくれば、赤ちゃんの世話ほど、不合理なことはありません。1円の得にもなりませんからね。
市場原理が通用しない、聖なる領域、教育や医療、福祉は、市場原理を超えて、人間の尊厳と人間らしさという観点が物を言う領域です。
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