歴史的に、神にいろんな段階があるように、個人にも、神にいろんな段階がある。
p76の7行目途中から。
1つだけは確かです。「神様を大事にする、その性質が、人を大事にする性質と一致する、ということです。さらには、神と人を大事にする性質は、無意識であることが多い、ということです」。それは、神様が大事にしてくださる力とは何なのかについて、より成熟した考えによってかばわれ、理にかなったものにされます。さらには、人を大事にする気持ちは、直接的には自分の家族関係に埋め込まれていますが、とどのつまり、その人が住んでいる社会によって決まってきます。もし社会構造が、権力に従属するならば(その権力がハッキリした権力だろうが、経済市場や世論のような、匿名の権力だろうが)、その人の神の概念は、幼稚であるに間違いはありませんし、成熟した概念であるはずがありません。成熟した神概念の種は、一神教の歴史にこそあります。
この第2章の最後の件は誠に衝撃的ですよね。人を大事にする気持ちは、社会構造次第だということだからですし、その社会構造が権力に従っている限り、人を大事にする気持ちは幼稚のままだ、と言うんですからね。これは、まさに日本のことですよね。人を大事にする気持ちを制度化したものが、医療、福祉、教育だとすれば、それがいかに弱い立場の人にとって、「厳しい」制度であるかは、説明する必要もないくらいですからね。
でもね、どうすれば、このような社会状況を改善できるのか? それがどこまでも課題ですねよ。それは最後にフロムがヒントを残してくれています。すなわち、≪超越≫です。
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