眼が無意識に巻き込まれていると、体(全人格・全人生)が暗くなります。
p345第3パラグラフ。
ここで私どもが手にした≪私≫から遠く離れて、もう1つガリラヤの言い伝えは、人間の自覚的な態度にとって、最も決定的な「新たな気持ち」を表現しているように思われます。イエスの弟子たちが正しい作法で手も洗わず、「盃、鉢、青銅の器を洗うこと」(マルコによる福音書第7章4節)について見た眼では一顧だにせずに、食卓に着いたのを見たパリサイ人から「それじゃぁ、ダメでしょ」と言われたときに、イエスはしぶといことを言います。それをマルコが報告しています。それは、「指針として人間の戒めを教えることが、あなた達の伝統を介して、神の言葉を無にするものですよ」と。マルコは続けます。「イエスは人々をまた呼んで、その人たちに対して話をしました『みなさん、私の話を聴きなさい。そして理解しなさい。“1人の人の外から入るものは、その人を汚したりはしない。しかし、1人の人から出て来るものは、その人を汚します”』」(マルコによる福音書第7章14節~16節)。その後、イエス、自分に問いを問う弟子たちのために付け加えます。「外から人に入るものは何物も人を汚したりしないことはお分かりですか? なぜなら、ものが入るのは、その人の心ではなくて、胃袋だからですね。そして、体から出ます。(このようにして、イエスはあらゆる食べ物に穢れがないことを宣言します)」。続けてイエスは言います「人から出てくるものは、人を汚します。なぜなら、内側から、人の心から出てくるものは、悪い考え、和姦、盗み、殺し、姦通、貪欲、意地悪、ウソ、性的放縦、妬み、悪口、高ぶり、愚かさだからです」(マルコによる福音書第7章18節~22節)。と。
イエスは臨床心理学の教師でもあることが、ここからハッキリわかりますよね。当時のユダヤ教では、食べていいものと食べてはならないものが、細々と決まっていました。食事そのものも、寝そべって食べるのはいいのに(牛にならないのかしら?)、様々な振る舞い方が決まっていたんですね。だから、パリサイ人は、その規律違反をしたイエスの弟子たちを非難したんです。
でも、イエスは食べ物はどんなものでもいいもんだ、と単純明快です。入るものはいいんですね。問題なのは出てくるもの。心の中から、おぞましいことか夥しく出てきますよね。これがすべて、意識が曇ったために、無意識から猛烈な勢いで、ドバッと出てくるものなんですね。
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