エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

生きている実感、生きる手応え、その2種類

2013-05-30 00:45:53 | エリクソンの発達臨床心理
 若者の良心がマヒするのは、まさに権力(政治的権力だけではありません。親や教員などの大人が権力になることに、注意!)から嗤われる時だとするエリクソンの指摘はとても重要でした。なぜなら、その時からその人は、生きている手応えを感じることが少ないからです。それはもはや、機械の一部と変わらない、といっても過言ではないかもしれませんね。「いちご白書」や「『いちご白書』をもう一度」とちょうど重なるものでした。あるいは、モノと数に死にもの狂いになるかもしれません。
 今日は、既存の「現実」のなかで、生きている実感を見失い、生きる手応えに諦めているとき、それを求めて何をするか、ということが話題に上ります。





 抗議の時代から現状肯定の季節への時代が方向転換した後、近年は、多くの伝統の場が、その場の想像力や雰囲気などから楽しく作り出したものによって、変容してきました。そのように楽しく作り出したものは、長年考えもしなかった精神的連帯を新たにしているように思われます。考えてみていただきたいのですが、伝統的な「コンサート(合意の)」会場で、新種の恍惚とした「人々」が上流階級気取りで従順な聴衆として振る舞うどころでは全くなく、決まった拍子で手を叩き、音楽のリズムに乗ることで初めて、活気づくのです。あるいは、想像してほしいのは、東洋から輸入されたことですが、精神的・肉体的存在として無視してきた資質を、瞑想によって生かす方法論であり、あるいは、伝統的な儀式を、教会生活そのものの中にエキュメニカルなスピリットを再び生み出すために、その場の想像力などで改造することです。より高い妥当性のある、こういった教化法の中に、より質の高い楽しいやり取り、その態度と言葉遣いもあるのです。その楽しいやり取り、その態度と言葉がある時初めて、「人々が遊んでいる無意識裏のゲーム」が明らかになるのです。この「ゲーム」と「遊び」という2つの言葉を使うこと、それは、なじみ深い、上下のある人間関係における「取引」を、大なり小なりバカにして、はっきり示すものです。しかし、勝つためには手段を選ばないことを最も強く擁護する人(性的関心や宗教においても、セラピーや仕事においても)の中には、似て非なるものでも、なにがしかの喜びを得ることに熱心で、しかも、得難い娯楽をしても、疲れ切ってしまうことを隠そうとしない人もいます。薬の影響についてはいまさら言いません。薬は、主体的に生きている実感を得るために、あそび場として、求められることが多いのですが…。




 現状肯定の季節になっても、その伝統的な場が、楽しい感じのある想像力や直観によって、新しい精神的連帯を生み出す場に変換する場合もある。しかし、他方で、現状肯定に開き直って、勝つためには手段を選ばない人は、本物の喜びは知らないけれども、せめて似て非なる喜びでも得たいと熱心に思っても、遊びと思ってやっていることにつかれてしまうこともある。レクリエーションをしても、自分を再創造することはできない。現状肯定にも、そこに、次元を異にするハーモニーをもたらす面と、不協和音しか出ない面と、2種類がある。それを明確に示してくれるのが、エリクソンです。
 今日はここまでにいたします。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いちご白書:演じる政治が、... | トップ | 遊びが大人になると生まれる... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿