学童期の演劇的要素が幼児前期の課題である良心を、より人間的なものにするのに役立つ。普通「親替え」と呼ばれる、良心を受容的、寛容にする作業が、演劇的要素を通じて、実践することができる、ということは大きな福音でした。しかし、今日は逆の面です。
実際、演技をする政治的役割と陽気な抗議は、最近の歴史において、かなり不自然なシナリオの中で、お互いに直面してきました。そのシナリオの中には、革命的な出来事の振りをするものもありました。私がここで考えるのは、学問の世界に身を置く者には忘れがたいことですが、ある種の歴史的陽気さが真正面から政治的事実に直面した時のことです。たとえば、コロンビア大学の革命的学生を取り上げてみましょう。その学生の顔写真が1968年新聞に掲載され、彼は「グレイソン・カークス学長の事務所の椅子を占拠した」とされましたが、実際は「カークス学長の『解放された』タバコを一本吸った」に過ぎなかったのです。その学生は、タイム誌のインタヴューを再度受けた時に、いまは「新しい詩、新しい映画、新しい表現を作ることに没頭しています」が、自分の顔写真が新聞に掲載されたことを「嗤いの劇場」と呼んでいます。
彼にとっても、終わり良ければ総て良し、なのかもしれません。しかし、世代の記憶は「占拠」のような事件をそうそう簡単に継承するわけがありません。当時、その「占拠」事件は、冬宮殿をボルシェビキが襲撃した事件と歴史的に同等であるとでっち上げられました。もしも、そのような事件がその後すぐに、嗤いの劇場であると思われるようならば、たとえなにがしかの政治的衝撃があったにせよ、若者の行動を一定程度麻痺させてしまう結果にもなりました。それはまるで、配役だけで、オリジナル脚本なしに、満場の舞台が出来上がったものの、結局はちりぢりになってしまったようなものでした。この若い英雄は、本当に詩作の道を見つけたのかもしれません。ほかの人たちは、間違いなく、既存の「現実」にもっと近い配役の中に、自分の生きる場を見つけざるを得ず、意気消沈していました。その既存の「現実」の中で、彼らは生きていることの手応えを特に感じずにいたのです。
今日は昨日の逆でしたね。政治を嗤うことが、市民の良心をより人間的なものにしうることが、昨日は示されました。その意味では、「ふたつよいこと、さてないものよ」が今日もエリクソンによって示されたことになりました。しかし、今日は、市民の抗議が笑いものになった時に、多くの市民は意気消沈し、生きていることの手応え、生きている実感のない場に生きざるを得ない、ということが起こりうることが重要でしょう。そこで麻痺するのは、若者の活動だけではありません。嗤われるとき、嗤われた若者(若者だけではない)の良心も挫け、麻痺してしまうことが何より問題です。それはまさしく「いちご白書」であり、「『いちご白書』をもう一度」なのです。
今日はここで失礼します。
実際、演技をする政治的役割と陽気な抗議は、最近の歴史において、かなり不自然なシナリオの中で、お互いに直面してきました。そのシナリオの中には、革命的な出来事の振りをするものもありました。私がここで考えるのは、学問の世界に身を置く者には忘れがたいことですが、ある種の歴史的陽気さが真正面から政治的事実に直面した時のことです。たとえば、コロンビア大学の革命的学生を取り上げてみましょう。その学生の顔写真が1968年新聞に掲載され、彼は「グレイソン・カークス学長の事務所の椅子を占拠した」とされましたが、実際は「カークス学長の『解放された』タバコを一本吸った」に過ぎなかったのです。その学生は、タイム誌のインタヴューを再度受けた時に、いまは「新しい詩、新しい映画、新しい表現を作ることに没頭しています」が、自分の顔写真が新聞に掲載されたことを「嗤いの劇場」と呼んでいます。
彼にとっても、終わり良ければ総て良し、なのかもしれません。しかし、世代の記憶は「占拠」のような事件をそうそう簡単に継承するわけがありません。当時、その「占拠」事件は、冬宮殿をボルシェビキが襲撃した事件と歴史的に同等であるとでっち上げられました。もしも、そのような事件がその後すぐに、嗤いの劇場であると思われるようならば、たとえなにがしかの政治的衝撃があったにせよ、若者の行動を一定程度麻痺させてしまう結果にもなりました。それはまるで、配役だけで、オリジナル脚本なしに、満場の舞台が出来上がったものの、結局はちりぢりになってしまったようなものでした。この若い英雄は、本当に詩作の道を見つけたのかもしれません。ほかの人たちは、間違いなく、既存の「現実」にもっと近い配役の中に、自分の生きる場を見つけざるを得ず、意気消沈していました。その既存の「現実」の中で、彼らは生きていることの手応えを特に感じずにいたのです。
今日は昨日の逆でしたね。政治を嗤うことが、市民の良心をより人間的なものにしうることが、昨日は示されました。その意味では、「ふたつよいこと、さてないものよ」が今日もエリクソンによって示されたことになりました。しかし、今日は、市民の抗議が笑いものになった時に、多くの市民は意気消沈し、生きていることの手応え、生きている実感のない場に生きざるを得ない、ということが起こりうることが重要でしょう。そこで麻痺するのは、若者の活動だけではありません。嗤われるとき、嗤われた若者(若者だけではない)の良心も挫け、麻痺してしまうことが何より問題です。それはまさしく「いちご白書」であり、「『いちご白書』をもう一度」なのです。
今日はここで失礼します。
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