今晩は、ご存知の方は少ないかもしれませんが、当ブログの熱心な読者ならば、ご存知、リチャード・コート Cote, Rechard G. のHoly Marth : a theology of laughter 『聖なる陽気 笑いの神学』から。リチャード・コートは、カトリック司祭です。
笑う神、というシンボルが心にあれば、不必要な思い煩いをしなくて済みますし、「どうだ、俺様は実力があるだろう」などと、いつもひけらかさなくちゃならない、というような、持ち味が死んでしまう圧力からも自由になれます。笑う神、というシンボルのおかげで、私どもは自由になれますし、受け身になることもなく、心から自由で、陽気で楽しく、本物のキリスト者の生き方もできますからね。
神様は、エンマ様みたいに、「怒れる神」と誤解している人が少なくありません。そうすると、「ダメと言われちゃいそう…」、などと思い煩いがひどくなりがちです。むかし、米沢興譲教会の、文字通りユーモラスな田中信生先生が、「思い煩いが、一番重い患いだ」と仰って、聴衆を笑わせたことがありましたけれども、まんざら笑い話ではないのではないですか? 思い煩いがある人ほど、人を裁きたくなりますし、露骨には裁きずらいので、人を嘲笑ったり、陰口をしたり、裏から手を回して意地悪して、せせら笑うような真似をのしがちです。あの無知無恥の夫婦みたいにね。コソコソが特色です。
神様は「笑う神」。「笑う神」は私どもの自由、自由意思をプレゼントしてくれます。先日の西村先生や加藤周一さんが、自由意思を大事にした話を思い出してください。心から自由ですと、陽気で楽しくすることもできますし、そうしたら、人が、子どもが寄ってきますよね。私は、赤ちゃんでも,鳩や犬でも,寄って来る,と思います。触ってこようとしますからね。一歳ぐらいになりますと、その子が持ってるものを渡してくれますもんね。心から自由な人は、陽気で楽しいので、そういう「電波」,「風」,「香り」を出しているのだろうと思いますし、赤ちゃんでも、その「電波」,「風」,「香り」を感じることが出来る訳ですね。その「電波」,「風」,「香り」を換言すれば、decency(品の良さ、良識のある感じ) the babit of being(生き方の習慣)と言えますね。いずれも、スコラ哲学の流れでしょう。
すると、その「電波」,「風」,「香り」を出す、あるいは反射する当人も笑顔になりますし、その「電波」,「風」,「香り」をキャッチした人は、赤ちゃんでも、お年寄りでも、また、笑顔になり、生きる希望と勇気を手にすることができます。晴れ晴れが特色になります。
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