エリクソン自身が日常生活の礼拝について、まとめの記述をしてくれていたことは、本当にありがたいことでした。日常生活の礼拝のとめのついての、どの記述も大切なことです。ここで確認しておきたいことは、日常生活の礼拝とやり取りはほぼ同義語ですし、お互い価値を認め合い、助け合い、補い合う関係も同様である、ということです。
今日は日常生活の礼拝のまとめの続きで、治療的な日常生活の礼拝の話です。
Toys and Reasons. 『おもちゃと、覚めた精神』のp83。最後のパラグラフから。
以上のことすべてが物語っていることですが、日常生活の礼拝は、時空を方向づけずにはおれない(見当識の)自我の持ち味と、1つの人間関係を支配している(あるいは、1つの人間関係の中で競っている)世の中に対する見方(常識、コモンセンス、センスス・コムニス、κοινη αισθησις コイネー・アイステーシス)との間を結びつける、主たる絆になる、と私どもが期待していることは、もう明らかなはずです。しかしながら、精神病理においては、日常生活を礼拝にする行動計画がバラバラになり、人々もバラバラになってしまうし、人々が一人ぼっちで抱え込んだ葛藤もホッタラカシになってしまう、そのあり方を私どもは学ぶことができますし、あるいは,学ぶべきなのです。そういう場合、私どもは日常生活の治療的礼拝を提供できるかもしれません。日常生活の治療的礼拝とは、人間が適応することに対して、新しい洞察を提供することなのです。しかし、日常生活の中に「実際に生きている」日常生活の礼拝を研究して初めて、私どもは、いかに、人々と、折り合いがつかずにいるいろんな葛藤とが、子育てパターンの中に、お互いにピッタリ結びつくのか、が分かりますし、現実問題、生きている日常生活の礼拝が失われたり、インチキな形ばかりのオザナリに陥ったりすれば、そういう事態が、いかに、社会病理をもたらすか、が分かります。
この様に日常生活の治療的礼拝が人間が適応することに対して提供する新しい洞察は、変化が速い現代においては、特別に重要になることでしょう。変化が速い現代は、日常生活の礼拝は,(たとえば、性役割の様々な分担に対して、より他罰的だったり、より寛大だったり)は、移り行く価値や科学技術の衝撃のもとでは、崩れていきます。しかしながら、新たな日常生活の礼拝が登場するのは、かなり有力な価値が登場して,その価値が,新たな素材になる(客観的)事実、新しい(主観的)実感,互恵的関係の中で関係を始めるための(対人関係上の)ご褒美の3つと一体となる場がある時だけです。
日常生活の礼拝は、1人の人の見当識、すなわち、自分を時間・空間・人間関係の中に位置づけ、どうやって生きていくかを方向付ける、自分自身を生かす指針と、この世に対する見方=「共に見る」物の見方を結びつける主要な絆であることが、ハッキリ分かります。
しかし、現代のように、変化の速い時代は、日常生活の礼拝が弱体化しているので、個人が、時空の中で自分を位置付けて、どう生きるかを方向付ける持ち味を統合する力も、個人の物の見方を「共に見る」物の見方に結びつける力も失ってしまっているので、バラバラになりやすい、と言います。そうすると、人間同士もバラバラになりますし、1人の人が折り合えずに困っていることも、ホッタラカシになってしまいます。人間関係が希薄になるどころではなく、争いと不安が増すことでしょう。また、人が悩んでいることも、日常生活を礼拝にすることによって他の人が共有する力も弱くなりますから、1人の人の悩みがいっそう深まることでしょう。そこでは、「人間を上下2つに分けるウソ」に、人々はいっそうはまりやすくなるはずです。争いと不信と不安がどうしても嵩じることになります。このバラバラな姿こそが、現代日本の姿ではないでしょうか?
この混沌としていて、閉塞感が強い、現代日本には、エリクソンが教えてくれている通り、日常生活の治療的礼拝、3つの現実(客観的な現実、主観的に現実[リアルな実感があること]、やり取りのある現実[やり取りの中でお互いにピッタリしていると実感しあうこと、互恵性])にフィットできる新たな価値の創造、その価値を体現する物の見方が必要です。
これで、「人類を一つと見るのか、それとも、2つに分けて見るか と、日常生活の礼拝」の節は、翻訳完了です。
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