エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「見る」ことの不思議!

2013-03-29 04:14:36 | エリクソンの発達臨床心理
 「子どもをうまく育てられない」、それには、自己愛が深く絡んでいることをエリクソンは教えてくれましたね。うまく子育てが出来ないのは、その大人自身が「大事に育てられた」経験が乏しく、その時の寂しさや悲しさ、あるいは「私がこんなに我慢したんだから」などという不満が募って、知らないうちに(無意識に)、激しい怒りや、人を殺したいと思うほど深い憎悪を抱くに至っているのに、その本人はあまりそのことに気づいていないからなのです。それで、知らず知らずのうちに、「私だって、大事にされてこなかったんだから…」と冷たく、あるいは、無関心に、場合によっては、親切そうな振りを演じているけれども、内心は凍るような気持ちで、子どもに接してしまうのです。まさに、“赤ちゃん部屋のおばけ”ですね。
 さて、今日は「見る」ことの不思議です。「見る」という何気ないことが、こんなに深い意味を宿していたのか、と分かって、ほんと感動するほど嬉しくなる部分です。こういうところがあるから、エリクソンは止められません。

 それでは、翻訳です。




 またまた、最初の赤ちゃんの発達段階のところに長居をしてしまったついでに、私は私がプレゼンテーションをする際の基本方針も申し上げておきました。しかし、儀式化のそれぞれの要素について問わなくてはならない疑問が、まだ一つ残っています。すなわち、儀式化が、日々成長する子どもの中にとどまり、なおかつ、発展する時、儀式化は、地域に住む人々の「共に見る」ものの見方に対して、はたしてどのように役立ち、あるいはまた、何を求めるのか?ここで私どもがもう一度強調しておかなければならないことは、私どもが、生まれたときには仰向けに寝かされていたところから、直立歩行する種になるまで発達する過程で、視野が変化することです。
 人間の内的な構造は、今まで申しあげたように、人間の習慣とともに進歩してきました。人間は、初めは口が欲しいものや感覚に必要なものを満してもらいたいと願うけれども、それ以外にも、大切な親に見守られることも、その見守ってくれる眼差しに応えて見ることも願っていますし、また、親の表情を見上げて応答してもらうことも、見上げる(尊敬する)ことができる誰かに対して、応答し、見上げ(尊敬し)続け、期待することをも願っています。また、その誰かは、眼差しを返す、まさにその行為をする時に、自分をすくい(救い)挙げてくれる人でもあります。このように見てくれば、世間の「共に見る」ものの見方にある宗教的な要素が、最初の赤ちゃんの時の発達段階に対応することは、もう明らかです。「ヴィスコンティ時祷書」で、バルベロが聖母マリヤの死を描いた時、天にまします神は、お包みに包まれた赤ちゃんの形で、聖母マリヤの魂を自分の両腕に抱き、聖母マリヤの魂の眼差しに応えて眼差しを返しています。この絵は、実存すべてに投影するように、最初の赤ちゃんの時の発達段階をまとめて示してくれています。宗教においては、ものを見ることは啓示となり、天啓の光景、すなわち、たとえ、厳格な律法の下で、完全に見捨てられるかもしれないという、すさまじい恐れがあることが多いとしても、この<私>が永遠であることを確かに保証してくれる光景となります。ここにおいて、それぞれの宗教が、それ自身の政治的組織を持つのですが、本物の政治は常に宗教と競い合うことなります(政治は、ある時には宗教に加わり、そうしなければならない時には宗教を大目に見て、そうできるときには宗教を吸収する)。それは、政治が、あの世の命ではないにしても、この世の新しい計画と、ポスターに映る、カリスマ性をたたえた笑顔の指導者とを約束するためなのです。しかし、どんな儀式でも本物でありさえすれば、あらゆる儀式化を実際に役立つように組み合せた時と同様、このヌミノースという一つの要素が、他のすべての要素と統合されることになります。





 以上が翻訳です。

 これで、最初の赤ちゃんの時の発達段階のところは翻訳完了です。いかがでしたでしょうか?
 エリクソンも最初の赤ちゃんの時の発達段階が好きですが、私もこの段階の話が大好きです。根源的信頼感(基本的信頼)しかり、ちょっと難しいけれどもヌミノースしかり、救いが話題になるところもしかりです。人が根源的に嬉しいのは、金子みすゞさんの詩もそうですけれども、自分が大切な存在と「離れていても絆がある」し、また、大切な人とは「違っていてもいい(価値を認められる)」ことを実感する時ではないですか?
 エリクソンは、赤ちゃんを育てることを、時には具体的に、時には、心理的に掘り下げ、あるいはまた、宗教や政治も関連付けることを通して、その大事さを、実に分かりやすく、私どもに教えてくれていると思います。とってもありがたい方ですね。

 次回は、幼児前期(early childhood)と呼ばれる、やんちゃな時期の子どものお話です。乞うご期待です。

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