前回は、「見ること」が実に奥深い意味を宿していたことを、エリクソンは教えてくれていましたね。幼児前期の翻訳に入る前に、エリクソンが前回教えてくれたことを、私なりにもう少し敷衍して、お話ししておきたいと思います。
それは、前回の翻訳部分とも、もちろん、関係しています。エリクソンは、一人の人(赤ちゃん)の中で儀式化が発展する時に、地域の人の「共に見る」ものの見方にどのように役立ち、あるいはまた、何を求めるのか、という疑問(いまさっき、そのように書き直しました)を提示していましたね。つまり、赤ちゃんのものの見方が、世間一般のものの見方、すなわち、世間の人々が物事をどのように「共に見る」ようになっているのか、ということと、どのように関係しているのか、を問題にしていましたね。とても大事な“視点”です。
ここで、私は白川静先生のように(自画自賛でゴメンナサイ)、言葉の語源にさかのぼって、「共に見る」ことを考えておきたいと思います。
日本語で「共に見る」と言っても、ピンと来ないかもしれません。しかし、ヨーロッパ諸語で「意識」と「良心」を示す言葉の語源が、元々は「共に見る」ことを示していることを知ると、ちょっと「あ~は、そうなのね」という感じになるのではないでしょうか?
英語では、「意識」は、consciousnessですし、「良心」は、conscienceですね。いずれも語源をさかのぼれば、ラテン語のconscientia(con=「共に」+scientia=「知ること」〉が語源ですし、さらに遡れば、ギリシャ語のσυνείδησις(συν=「共に」+είδον<όρϖ=「見る」「見て知る」「見て分かる」〉syneidesis(シュネーデシス)」が語源です。「良心」は、ドイツ語では、Gewissen、フランス語では、conscience、イタリア語ではcoscienza、など、いずれも「共に知る」ことを意味しています。フランス語のconscience、イタリア語のcoscienzaは、英語と同様、語源はラテン語のconscientia、さらにギリシャ語のσυνείδησις(シュネーデシス)」にさかのぼりますから、「共に見る」をもともと意味します。
ここで「『見る』と『知る』は必ずしも同じではないのでは?」と疑問に思われる方がいるかもしれませんね。しかし、そうではないのです。英語のseeを思い出していただければすぐにわかると思うのですが、seeには「見る」と「知る」の意味があります。また、ギリシャ語のσυνείδησιςのείδον(エイドン)はόρϖ(ホロー)の第二アオリストという語形変化をした言葉で、「見て知る」「見て分かる」を意味します。日本語の「知」の字にさえ、「見抜く」という意味がありますよね。最も深い見抜く力でもある「英知」(wisdom)は、8番目の発達段階の老年期のVirtue(力・徳)です。ですから、「見る」ことは「知る」ことと繋がっているわけです。
赤ちゃんの場合、お母さんと「共に見る」ところから出発して、そこから赤ちゃんの「意識」や「良心」が生まれ、そして、育っていくわけです。エリクソンは、その「意識」や「良心」をひとまとめにして、さらにアイデンティティとも繋げて、<私>(“I”)と呼んでいるのですね。そして、この「共に見る」は、目の前にある物事を「共に見る」ことばかりではなく、目の前にないこと、すなわち、過去を「共に見る」ことや未来を「共に見る」「共に見通す」ことから、この世にはない物事を「共に見る」ことまでも含んでいます。ですから、宗教的な意味で「信じる」「信頼する」ことも、「共に見る」ことの延長上にあるわけです。
ひとりびとりの意識や良心、それに<私>(自分自身)が、お母さんと「共に見る」ことを出発点にしている以上、物事を「よく見る」こと、ポジティヴに、肯定的に見ることを身に着けていきたいものですね。
今日はここまで。
それは、前回の翻訳部分とも、もちろん、関係しています。エリクソンは、一人の人(赤ちゃん)の中で儀式化が発展する時に、地域の人の「共に見る」ものの見方にどのように役立ち、あるいはまた、何を求めるのか、という疑問(いまさっき、そのように書き直しました)を提示していましたね。つまり、赤ちゃんのものの見方が、世間一般のものの見方、すなわち、世間の人々が物事をどのように「共に見る」ようになっているのか、ということと、どのように関係しているのか、を問題にしていましたね。とても大事な“視点”です。
ここで、私は白川静先生のように(自画自賛でゴメンナサイ)、言葉の語源にさかのぼって、「共に見る」ことを考えておきたいと思います。
日本語で「共に見る」と言っても、ピンと来ないかもしれません。しかし、ヨーロッパ諸語で「意識」と「良心」を示す言葉の語源が、元々は「共に見る」ことを示していることを知ると、ちょっと「あ~は、そうなのね」という感じになるのではないでしょうか?
英語では、「意識」は、consciousnessですし、「良心」は、conscienceですね。いずれも語源をさかのぼれば、ラテン語のconscientia(con=「共に」+scientia=「知ること」〉が語源ですし、さらに遡れば、ギリシャ語のσυνείδησις(συν=「共に」+είδον<όρϖ=「見る」「見て知る」「見て分かる」〉syneidesis(シュネーデシス)」が語源です。「良心」は、ドイツ語では、Gewissen、フランス語では、conscience、イタリア語ではcoscienza、など、いずれも「共に知る」ことを意味しています。フランス語のconscience、イタリア語のcoscienzaは、英語と同様、語源はラテン語のconscientia、さらにギリシャ語のσυνείδησις(シュネーデシス)」にさかのぼりますから、「共に見る」をもともと意味します。
ここで「『見る』と『知る』は必ずしも同じではないのでは?」と疑問に思われる方がいるかもしれませんね。しかし、そうではないのです。英語のseeを思い出していただければすぐにわかると思うのですが、seeには「見る」と「知る」の意味があります。また、ギリシャ語のσυνείδησιςのείδον(エイドン)はόρϖ(ホロー)の第二アオリストという語形変化をした言葉で、「見て知る」「見て分かる」を意味します。日本語の「知」の字にさえ、「見抜く」という意味がありますよね。最も深い見抜く力でもある「英知」(wisdom)は、8番目の発達段階の老年期のVirtue(力・徳)です。ですから、「見る」ことは「知る」ことと繋がっているわけです。
赤ちゃんの場合、お母さんと「共に見る」ところから出発して、そこから赤ちゃんの「意識」や「良心」が生まれ、そして、育っていくわけです。エリクソンは、その「意識」や「良心」をひとまとめにして、さらにアイデンティティとも繋げて、<私>(“I”)と呼んでいるのですね。そして、この「共に見る」は、目の前にある物事を「共に見る」ことばかりではなく、目の前にないこと、すなわち、過去を「共に見る」ことや未来を「共に見る」「共に見通す」ことから、この世にはない物事を「共に見る」ことまでも含んでいます。ですから、宗教的な意味で「信じる」「信頼する」ことも、「共に見る」ことの延長上にあるわけです。
ひとりびとりの意識や良心、それに<私>(自分自身)が、お母さんと「共に見る」ことを出発点にしている以上、物事を「よく見る」こと、ポジティヴに、肯定的に見ることを身に着けていきたいものですね。
今日はここまで。
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